王であるキリスト*の声 (ヨハネ18章33b~37節)

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   王の声は、「命令」を意味します。脅迫を感じさせる恐ろしい声です。また、生死を決定する声でもあります。ピラトの「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」という言葉を思い出してみてください(ヨハネ19・1)。

   一方、イエスの声は自ら命を捧げる声です。「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。」(ヨハネ10・18)や「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(ルカ23・42~43)という言葉から、イエスの声が命を脅かすどころか、生きる希望を与える声であることを実感することができるでしょう。    

* カトリック典礼暦では、11月22日は「王であるキリスト」の祭日です。この祭日は、1925年に教皇ピオ11世が「王であるキリスト」の祝日と定めたものです。ドイツではヒトラー、イタリアではムッソリーニソビエトではスターリンが独裁体制を固めている時代でした。

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いのちの書に記すこと (ダニエル書12章1~3節)

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   みなさんは日記をつけたことがありますか。日記は、日常生活の中での感動的な体験や大切な出会いなどを書き記すことです。それによって、人生における大切な思い出を保存し、振り返った上で新たな計画を立てることもできます。

    「いのちの書」は、一人ひとりの人生において、行ったことが記録されている日記のようなものです。そこには過ちや至らなかったことばかりではなく、実践した善き行いも記されています。終わりの日に、自分の罪に対する処罰への恐れに縛られることなく、行った善において承認をいただくのです。

    わたしたち毎日の生活を送りながら、「いのちの書」に様々な形で善行を書き記しています。詩のような美しい記録もあれば、スケッチのような簡単な記録もあるでしょう。調和のとれたオーケストラのような記録や、非の打ち所がない絶品料理のような記録もあることでしょう。

    みなさん、今週は「いのちの書」にどんな記録を書いたのでしょうか。

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コミュニケーションにおける障がい

   私たちは皆、ある意味で障がいを持っていると思います。目に見える障がいを持っている人々は、それを隠さずに助けを求めます。しかし、表面的な障がいがなく、自分は健常者だと思い込んでいる人々は、「助けて」と叫びたいのに「大丈夫」や「頑張ります」などと言って自分も周囲も偽り、本当の気持ちを抑圧しているのではないでしょうか。いつも相手の反応を恐れて、本当の自分を見せていないのです。「聞いてほしい」「助けてほしい」という叫びで窒息しそうになっているはずです。私たちは日常生活でこのような状況に直面しているのではないでしょうか。

   そもそもコミュニケーションとは、機械による情報を「伝達する」ことではなく、「共有する」と言う意味です。言い換えれば、互いに自分をさらけ出すことで、人間同士の心の触れ合いという交流ができるのです。お年寄りと若者、親子、男女を問わず、互いを自由にさらけ出すことができないため、本物のコミュニケーション(共有)が行われていないのではないでしょうか。それこそ人間関係がうまくいかない原因の1つだと思われます。

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諸聖人の祭日に当たってー 聖徒の交わり 

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   自分はそのメンバーであるとはっきり意識している人々の集まりであるというふうに、教会を限定してしまうことがよくあります。けれども、キリストに連れなっているすべての人々の教会、生きているキリストを見せてくれる証し人たちの集まりである教会といったように、教会はあらゆる制度の限界をはるかに超えるものです。イエスご自身が言われたように、聖霊は「思いのままに吹き」(ヨハネ3・8)ます。イエスの霊は、どこであろうと望むままに人の心に触れることが出来ます、イエスの霊は、どんな人間の限界にも制約されません。

    教会には、地の果てまで、そしてさらに遠く広く届いている復活したキリストを証しする、聖徒たちの交わり、という姿があります。この交わりは、過去、現在、未来、地の果てから果てまでのあらゆる人々に開かれ、人々に温かく包んでいます。教会の交わりとはことはと行いによってイエスは主であるとのべ伝えて来た人々、そして今ものべ伝える人々の果てしなく広がるコミュニティーのことです。  

 H.ナウエン、「今日のパン、明日の糧」、聖公会出版、2003年、372項

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勇気の天使 (マルコ10章46~52節)

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   「勇気や勇敢さは兵士だけに求められるものではなく、どのような人にも必要なものです。メディアは、人がどうあるべきか、どのように考えなければならないのか、どんな服を着るか、どのように行動するかという基準を与えます。このような世界で、人と違うようにいること、自分らしくあることは非常に勇気のいることです。勇気の天使はあなたが仕事や人生において決断しなければならないとこに、あなたを助けたいのです。

    重要な決心を前にして、あなたは勇気の天使に助けを求めることができます。その決心が絶対に正しいという保証はどこにもありません。わたしたちにとって絶対に正しい道というのは決してありません。それでも、わたしたちは分岐点に立ったとき、決断しなければなりません。先に進みたいと思うとき、わたしたちはたった一つ道しかいくことができません。わたしたちが通り抜けなければなない道も、段々狭くなっていくことがあります。それはわたしたちのいのちが広がるためです」

                               アンゼルム・グリユーン、「50の天使。1年の歩みのために」、

                                                           キリスト新聞社、2007、78~81項からの抜粋

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人生の杯 (マルコ10章35~45節)

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杯は人間の人生にたとえられ、誕生からこの世を去るまでの間に経験した出来事で満ちています。私たちは、生きているうちに人生の杯を手に取り、それを持ち上げて中身を飲み干します。以下の三つの行為は、人生に乾杯することなのです。 

 1.杯を手に取る

いろいろな種類のお酒があるように、人生にも様々な生き方があります。つい他者と比べがちですが、そんな比較は何の役にも立ちません。自分に与えられた人生を生きていこうという姿勢こそ大切なのです。

2.人生の杯を持ちあげ、中身を認識する

人生の杯を飲むということは、人生の中に起こるすべての事を受け止めることです。これは決して簡単なことではありません。しかし、杯を持ち上げ、その中身を認識するというのは、与えられたものを承諾することなのです。

3.杯から飲む=人生を味わい分かち合う

人生の杯には、悲しみと喜びが交錯しています。悲しみの中に潜んでいる喜びを見つけるために、中身をじっと見つめなければなりません。後になって振り返ってみると、その体験がなければ今の自分はなかっただろうと気付くはずです。

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