理性の愛 

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー  (マタイ5章38~48節)

   私たちはしばしば、愛するということが自然発生的な感情の結果であると思っています。でもそうではないのです。本当の愛は、私がこの人に対してどうあるべきかということが愛なのです。つまり、努力の結果、生まれてくるのが本当の愛なのです。身近な例でいえば、姑と嫁の関係です。いやな姑を持つ嫁がいるとしましょう。そうすると、姑の顔も見たくないと思ったり、姑の使ったタオルに触るのもいやだと言って、二本の指でつまんだりします。

   しかし、もし姑が自分の母だとしたら、どうするでしょうか。このことから、理性で行動することが大切だということを学ぶでしょう。また反対に、いやな嫁がいたら、その嫁を特に好きにならなくてもいいのです。ただ、その嫁が好きであるのと同じように、理性的な行動をとるのです。例えば、病気になったら薬を持っていってあげるとか、寒かったら温かい衣服を買ってあげるとか、食欲がなかったら好きなものを食べさせてあげるということです。

   そのうち、ごく自然に、両者の間に意図的な愛を超えた自然な好意の流れが成り立つ関係が生まれるかもしれないのです。「理性の愛」とは、このような関係の源流であり、最後まで残る流れなのです。 

                    曽野綾子著 『現代に生きる聖書』参考。

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「完成するため」

 福音朗読は  Laudate | 教会カレンダー  (マタイ5章7~37節)

    イエス様はどのように旧約聖書の教えを完成させたのでしょうか。律法の文字に縛られるのではなく、本来の意図すなわち神の望みは何であったのかという点にさかのぼって律法を再解釈しました。それは、律法学者とファリサイ派の律法の解釈と対立するものでした。しかし、イエス様は新しい律法を作ったのではなく、律法に込められている神の本来の意図をもう一度呼び起こすことによって、律法を完成されたのです。

  イエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」と宣言しました。「完成すること」は、律法によって神の本来の望みを思い起こさせ、再確認するという意味です。一つ例を挙げてみましょう。「殺すな」という掟があります。イエス様は、この掟に込められた神の本来の意図を表現しました。「殺すな」とは、銃や刃物で殺すことだけではなく、神から与えられたいのちを軽んじることや神の似姿として作られた人格を傷つけることも、「殺すな」の掟に含まれているとイエス様は訴えているのです。

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卒業

ローマでの大学生活も無事に終わり、
信仰教育学(養成・育成)の修士号を授与されました。
2年半の間、皆さまから頂いた応援に感謝いたします。

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ユスト高山右近―忠実なキリスト者 

  30年前、ザベリオ会の先輩から「キリストは私たちから成功を求めたり、完璧さを期待したりしない。私たちから求めているのは、キリストに忠実な者であることです」ということばを頂きました。しかし、私たちは「どれだけ成功しているか、どれだけ完璧に近づいているか」とついつい考えがちではないでしょうか。
  カトリックの伝統の中で、「赤い殉教」と「白い殉教」という二つの表現があり、二つの信仰の証のあり方を表しています。「赤い殉教」とは命を捨てる、つまり、信仰のために拷問や暴力を受けて殺されるという意味です。長崎の26聖人の殉教者がこれに当たります。それに対して、「白い殉教」とは日常のことをしながら、信仰のためにキリストを他者に証しすることを表しています。日常生活において、様々な形で、あらゆる機会を利用して、証しするという意味なのです。つまり、生涯にわたる一貫した信仰、堅忍、忠実さの証のあり方なのです。それを体現したのは、2月7日に列福式が予定されているユスト高山右近です。信仰の自由が認められている現代の日本では、白殉教の実...践が大切だと思います。
   高山右近の詳細について高槻教会のHPまでご覧ください。
カトリック高槻教会 - 高山右近

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「貧しい」人は幸い

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー  

 

   「心の貧しい」は明治以降の伝統的な日本語訳ですが、ほとんど誤訳と言わざるをえません。「心が貧しい」という日本語は「精神的貧困」を意味しますが、ここではそういう意味ではないからです。直訳は「霊に貧しい」で、「神の前に貧しい」という意味に受け取るのがよいと考えられます。マタイは決して物質的な貧しさを無視しているのではなく、物質的な面だけでなく、神の前にどうしようもなく欠乏し、飢え渇いている人間の姿を示そうとしているのです。なお、フランシスコ会訳聖書は「自分の貧しさを知る人」と訳し、新共同訳ができる前の共同訳聖書は「ただ神により頼む人」と訳しています。どちらもかなり大胆な意訳ですが、参考になります。


    マタイの後半の4つの幸いは、貧しいだけでなく、その中でもっと前向きに生きようとする人々の姿を表しています。それは「憐れみ深い」「心の清い」「平和を実現する」「義のために迫害される」という生き方です。「八つの幸い」というマタイの形はもはや単なる祝福ではなく、その祝福の中を生きるとは具体的にどういうことかということをも示しているのです。そういう観点から「八つの幸い」全体が整えられていったと考えることができるでしょうし、「八つの幸い」全体を受け取ることは、わたしたちにとっても大切なことです。

                      年間第4主日「福音のヒント」より

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教会一致推進運動(エキユメニズム運動)

   2000年に及ぶキリスト教の歴史の中には、不幸な出来事がいくつか生じており、その一つにキリスト教内部の分裂や対立があります。キリスト教徒はキリストを主と宣言し、キリストに対する信仰を保ち、同じ聖書を信仰のよりどころとしているはずなのに、現状は非常に多くの教派に分かれてしまっているのです。

    21世紀になって、教会はようやく対立ではなく対話の精神で各教派が互いを理解し、一致を実現しようとする道を歩み始めました。この動きをエキュメニズム運動(教会一致推進運動)と呼んでいます。特に、1948年に成立した世界教会協議会(WCC)や第ニバチカン公会議(1962-65年)などが、各教派の一致への歩みを推進する力となってきました。 

  現在のエキュメニズム運動の根底にある精神は、「対話」です。かつては互いに排斥し合っていた時代もありましたが、現在はそれぞれの教派がお互いの立場を尊重し、同じ主キリストを信じる者として交流しようと努めています。たとえば、毎年1月18日から25日を「キリスト教一致祈祷週問」として、各教派が一致のためにともに祈りをささげることにしています。また、共同で聖書を翻訳したり共同で使える讃美歌を作成したりするなど、具体的な形でも一致への道が少しずつ整えられているのです。

 

写真解説 ー 去年10月31日 

教皇の訪問は、スウェーデン政府とルター派世界連盟の招きに応えたもので、マルチン・ルターの宗教改革から500年を記念するエキュメニカルな行事に出席することを目的としている。教皇の訪問は、スウェーデン政府とルター派世界連盟の招きに応えたもので、マルチン・ルターの宗教改革から500年を記念するエキュメニカルな行事に出席することを目的としている。」(当日のラジオバチカンから)

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証しする

福音朗読は  http://www.pauline.or.jp/calendariocappel…/…/a_ord02sun.php…  

   日本語では「証しする」という言葉は、「証言する・証人となる」と意味です。それは、単に言葉で自分の考えを述べるということではありません。ある事件の証人とは、その出来事を確かに見たり経験したりした人を意味します。自分が「見たこと・経験したことを語る」のが「証言する」ということなのです。洗礼者ヨハネは、何らかの仕方で神から「後から来られる方」を示されたからこそ、その方について証言したのでしょう。

   「わたしはこのような体験の中でイエス様を知った。イエス様の愛を感じた」というような言葉には力があります。しかし、最も力強いのは、イエスと出会って人が変えられた(救われた)ということが、その人の生き方の中に表れるときではないでしょうか。

   教会の「殉教者」という言葉の原語は、元々「証しする人」の意味でした。殉教者とは、言葉よりもその生涯と死を通して、キリストを証しした人々なのです。キリスト教は、難しい神学ではなく、言葉と生き方による「証し」によって受け継がれてきた、と言っても過言ではありません。私たちにとってイエス様を証しするとはどういうことでしょうか。                                                                    「福音のヒント」より

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