あなたも出てきなさい

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー  (ヨハネ11章1~45節)

   イエス様は墓に納められたラザロに、「ラザロ、出てきなさい」と大声で呼びかけています。ラザロとは異なり、私たちは命が与えられ、墓の中ではなく社会の中で暮らしていますが、このイエス様のことばは私たちにも向けられていると考えられます。

    私たちは人間関係において、閉塞感溢れる状態にいます。自己中心的考えや過去の嫉妬、怒り、憎しみなどが足かせとなり、人生の道を歩むことが出来ず、死んだ状態にいるのではないでしょうか。そのような過去の状態は、いのちを窒息させるものです。また、知らず知らずのうちに、他者に対する心遣いに鈍感になってしまっているかもしれません。

    イエス様が言った「ほどいてやって行かせなさい」とは、手と足を指していますが、心の奥底にある嫉妬や憎みなどを解放させるという解釈も可能なのではないでしょうか。私たちを束縛している感情を解放させると、周囲の物事に関心を持つようになり、周囲の人々を恐れることなく、つながりを持っていきます。つまり、出ていくことから出会いは芽生えるのです。

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新天地へ

今日、午後から泉佐野の本部を出発して、熊本県にある玉名教会(写真)へ行きます。4月2日に主任司祭として着任する予定で、近隣の荒尾教会も兼任します。同じザベリオ会の84才の大先輩の協力と知恵をいただきながら、新天地での人生の本に新たな章を書き始めます。みなさん、これからも応援宜しくお願いします。

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見ようとしないこと

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー  ヨハネ9章 1-41節

  「今日の福音書に出てくる目の見えない人も、まさにそうでした。通りすがりに聞こえよがしに口にされた「この人が生まれつき目が見えないのは誰が罪を犯したからですか?」という質問や、のちにファリサイ派の人々との問答の中で投げつけられた「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」という心無い言葉が、彼が長い間周囲からどのように見られどのように扱われていたのかを端的に伝えてくれます。その人の生まれつきの障害が癒された後でさえ、その周囲にあったのは、喜びや祝いの雰囲気ではなく、とがめと恐れの渦でした。彼の両親ですら、我が子の長年の苦しみからの解放を喜ぶ前に、時の権力者からの不興を恐れたのです。

    見ようとしない人、見たいと望まない人には、こんなに明らかな神の愛の奇跡が見えず、神の喜びのメッセージが聞こえないのだと、思い知らされます。今も世界中の思いがけないところで日々刻々行われている神の愛の業をしっかり見る恵みと、いかなる困難も神の業が行われるチャンスであると信じてその愛の業に協力していく恵みを、今日、改めて願いたいと思います。苦しい状況のただ中にある、あの人この人を思い浮かべながら。」

              黙想のヒントより(http://seseragi-sc.jp/xe/346495

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様々な解釈

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー  (ヨハネ4章5-42節)

   本日の福音箇所にある「五人の夫」(18節)の表現には、サマリアの女が象徴している歴史的な背景を読みとることができます。紀元前8世紀にアッシリアによって北王国が滅ぼされた時に、隣国の人々はサマリア地方に神々の偶像を持ち込みました。そして、その地方に残ったイスラエル人は隣国の民と交わり、偶像を礼拝するようになり、イスラエルの宗教は正統性を失っていきました。また、紀元前4世紀には、サマリア人エルサレムの神殿に対抗して別の山に神殿を建て、イエス様の時代にもその山で礼拝を行っています(20節参照。

   福音書に登場する女のかつての五人の夫は、異邦人の五つの神々を象徴しています(列王記下17章29-31節)。また、「今連れ添っているのは夫ではない」という表現は、サマリア人が正しい神への礼拝を行っていないことを象徴しています。過去の「五人の夫」と現在の「連れ添っている人」(18節参照)を合わせると「六」になります。「六」は、聖書において「未完成」という意味です。一方、この場面では、サマリアの女はイエス様に出会っています。この出会いは、キリストと呼ばれるメシアの到来を表しています(25-26節参照)。イエス様は「七人目」の夫となります。「七」という記号は「完成」という意味なのです。

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雲形と仮小屋形の関わり方

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー  (マタイ17章1~9節)

   本日の福音個所に、雲と仮小屋の二つのイメージが出てきます。聖書では雲は特別なしるしです。ちょうど天と地上の間にあって、神の存在を示すしるしだからです。旧約聖書では、雲はモーセと話し合う神のしるしであり、また約束の地への旅の途中、砂漠の中を先頭に立って導く神の存在のしるしです。

    雲と仮小屋が周囲に対する私たちの関わり方を表すとしましょう。雲の場合、最初は私たちと雲は別の存在ですが、そのうち私たちの存在と私たちが関心を寄せる物事は雲に包まれていきます。そして、私たちの家族から世界規模の出来事までが雲の中に入るのです。仮小屋の場合、内部を外界から遮断するために造られるので、中から締めてしまうと外からは入ることができないため、人は孤立します。外からのものを面倒くさがったり、邪魔ものとして扱ったりして、遠ざけているからです。

    神をはじめ、他者に対して、みなさんはどのような関わり方をしているのでしょうか。仮小屋、つまり中に閉じこもったままでしょうか。それとも雲なのでしょうか。つまり雲に包まれて、神と対話する関わり方なのでしょうか。 

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「あなたが祈る時」 

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー  (マタイ6章1~6、16~18節)

   福音箇所に「あなたが祈る時」と書かれていますが、この表現について二つの指摘があります。一つ目は、「あなたが祈るなら」ではなく、「常に祈っているあなた」であってほしいこと、つまり、祈る姿勢は忠実であることが強調されています。二つ目は、定期的に行うこと。日常生活において時間を割いて祈ることです。しかし、祈りたいと思っている時こそ雑念が浮かんでくることが多く、それと闘うことでエネルギーを費してしまうのです。では、どうすればいいのでしょうか。

    雑念と闘って追い出すことに力を使うよりも、距離を置くことが大切です。雑念は必ずしも価値のないものではありませんが、祈りはより価値のあるものなので、祈りを優先させるからです。

   祈りとは、神との対話というよりも神のみ前で沈黙することです。語ることではなく、沈黙する、すなわち神のうちに心を沈ませる姿勢なのです。それによって、私たちが神に引き寄せられていきます。祈りの本質は、神に対する私たちの願いが聞き入れられるかどうかということよりも、私たちに対する神のみ旨の実現を願い、それを信頼することなのです。

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