「イエス・キリスト」

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー  (マタイ16章13~20節)

   日本語で欧米人の名前を書く時、私の本名のレナト・フィリピーニのように、名前と姓の間に「・」が表記されます。しかし、イエス・キリストの場合、「イエス」が名前で、「キリスト」が姓という意味ではありません。「キリスト」はヘブライ語の「メシア」をギリシャ語で表した形であり、本来の意味は「油を注がれた者」なので、キリストは固有名詞ではないのです。

   旧約聖書では、「油を注がれた者」とは王や祭司、そして預言者に対して用いる言葉でした。その後、民を圧政から解放し、救いに導く指導者を表すように変化していったのです。新約聖書の時代、「メシア」という概念は期待に満ちたものであり、政治的・社会的な救い主というイメージが強かったようです。特に、ローマ帝国からイスラエルを解放し、王国を再建してくださる栄光の救い主への期待が高かったのです。

   そして初期のキリスト教徒は、十字架上で処刑されたイエスこそ神の子であり、救い主メシア、すなわち「キリスト」であると確信したのです。それから、イエス・キリストとは「救い主イエス」という意味で、信仰を簡潔に告白する言葉ができたのです。

 下に宇宙支配者であるキリスト(モサイク、ドゥオモ、チェファル、南イタリア

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人生における勇気

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー  (マタイ15章21~29節)

   本日の福音書を読むと、人生は冒険であり、勇気が必要不可欠だと感じられます。登場人物は女性でありながら、イエス様に大胆にも挑戦しているからです。男性社会の時代では、女性は男性の所有物でした。また、彼女は異邦人でありながら、願いを求めているのです。

   未知な物事に対して、勇気は必要なものです。疑問に縛られて、一歩も進むことできず、間違うことを恐れて、慌ててやめてしまう場合は多いのではないでしょうか。そのため、人生は冒険であり、挑戦であると言っても過言ではないのです。

    みなさん、自分自身に当てはまる節目を振り返ってみましょう。ランドセルや小さくなった制服、運転免許証、就職、結婚、そして初めて子どもが生まれたことなど。さらに、還暦や古稀喜寿、傘寿を迎えたことなど。それら人生の節目に、どれほど勇気が要求されたものでしょうか。

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市場の中の静かな場所

聖書朗読は Laudate | 教会カレンダー  (列王記上19913節)

   

   「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩編4610)。これは忙しい生活をするにあたり、覚えておくとよい言葉です。私たちは、静けさを騒がしい世界と対比させて考えるかもしれません。でも、仕事をしていたり、教えていたり、建設作業していたり、音楽を演奏していたり、会議中であっても、内なる静けさを保つことはできます。

 

   市場の喧騒の中にあって静かな場所を心の中に保つことが大切です。この静かな場所とは、神が住み、私たちに語りかけられるところです。そこはまた、私たちが忙しい日々の中で出会うすべての人に、癒しとなるような方法で語りかけることの出来るところでもあります。そのような静かな場所がないと、空回りの状態になってしまうでしょう。追い立てられるようにやみくもに、あちらこちら走り回ることになるでしょう。けれども、静けさを心に保っていると、私たちが考え、語り、行うすべてのことにおいて、神がやさしい導き手となってくさいます。

 

H.ナウエン、「今日のパン、明日の糧」、聖公会出版、2003年、118項。

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聞くこと

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー  (マタイ1719節)

   聖書は、単なる過去の物語ではありません。現在の私たちにも語りかけている書物です。「祈るとき、あなたは神に語りかけます。あなたが読んでいるとき、神はあなたに話しかけます」という箴言があります。「聞く」ことは、単に耳で相手の声を聞くという意味だけではなく、聖書でよく用いられる表現である「聞き従うこと」や「聞いて実行すること」という行動を伴う姿勢なのです。

   聞き従う人つまり信仰心のある人は、耳だけではなく目でも見ています。鋭い視線で眺めるのです。イエス様の足跡を目で確認し、みことばを聞くために耳を澄ましているのです。また、信仰するということは、イエス様からの呼びかけに一瞬で「はい」と答えるのではなく、旅に出るようなものです。この先に待っている出会いや出来事、そしてそれらがどれほど自分に影響が及ぶかは分かりません。しかし、イエス様は人生の道を案内してくださるので、イエス様にゆだねてみてはどうでしょうか。

 

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人生に隠された宝

  福音朗読は Laudate | 教会カレンダー  (マタイ13章44~52節)

    福音書にある最初の二つのたとえ話に、「すっかり売り払い」という表現が出てきますが、これはよく誤解される表現です。宝を手に入れるという前提で「売り払う」のではありません。福音書に登場する人物は、宝に偶然遭遇し、その価値に気づいたため、持ち物を売り払うことにしたのです。

   人生における根本的な選択から日常生活での思いがけない出会い、そして突然の出来事は、偶然ではなかったことに後々気づくことがあります。それは毎日のように経験することではないでしょうか。様々な物事に捕らわれて、人生という畑に隠れている宝、すなわち信仰を見逃してしまうこともあるのではないでしょうか。

   日常生活の営みに妨げられた信仰について、神秘主義者のマイスター・エックハルトは、「名匠が木や石で像を造るとき、像を木の中に刻み入れるのではなく、像を覆い隠している木屑を切り除くのである。木に何かを与えるのではなく、何かを取り除き、覆いを取り、さびを取り除くと、その下に隠されているものが輝き出るのである。これは、福音書の中で、主が畑に隠された宝といったものである。」と述べています。私たちは、あれもこれも追い求めたり、また追われたりしがちです。その中から本当に大切なものを見つけてみませんか。

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イエスの見方 

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー  (マタイ13章24-30節)

   今日の福音書には、収穫の場面が描かれており、畑によい麦と毒麦が登場しています。ここで、私たち人間の世界に目をむけてみましょう。仕事を効率良くこなす人とそうでない人や、健康な人と病人というように、私たちは表面的で対照的なレッテルを安易に貼ってしまいがちです。このような分け方によって、私たちの他人に対する見方が成り立っているのではないでしょうか。

    しかし、イエス様の見方は違います。例えば、芸術家は重く固い大理石から気高い彫刻を彫ります。また、何も描かれていない一枚の紙に、美しい絵を描き出すでしょう。同様に、イエス様は一人一人の奥の奥まで見抜き、どのような過去を持っていても、また偉くても目立たなくても才能がなくても、未来を見つめながら傑作を生み出させてくださるのです。これによって、イエス様を信じることの素晴らしさが分かります。愛や希望、そして信頼をもたらす豊かな創造力のある信仰心です。これによって、キリスト教に特有の人間観が作り上げられているのです。

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人生の土壌に蒔く

福音箇所は Laudate | 教会カレンダー マタイ13章1-9節)

 

   価値のある人生や実り豊かな人生とは、成功や名誉などを手に入れることではありません。価値のある人生とは、自分の道を歩みながら成長し続けることです。人生は土壌のようなもので、様々な出来事が種として蒔かれています。嬉しい時もあれば、辛い時もあり、思いがけない出来事もあれば、待ちに待った出会いもあることでしょう。これまで経験してきたすべてから逃げたり、その出来事に縛られたりすることなく、 それらをどのように受け入れ、どのように応えるのかが大事です。それによって、皆さんがどれくらい円熟した人格であるのかが分るのです。

    皆さんは、今までどんな土壌に落ちてきたでしょうか。どのようにしてその環境に応えてきたでしょうか。言い換えれば、どんな出会いに巡り合ってきたでしょうか。その出会いによってどれほど成長し、実を結んできたでしょうか。

    そして、自身は他者の土壌に種を蒔く人となりましょう。単に蒔くのではなく、豊かに蒔きましょう。丁寧な言葉遣いやためになる助言、寄り添う存在や配慮などの種を惜しみなく蒔くこととなるのです。

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