福音宣教とは(2)

「教会は強引な改宗活動によってではなく、人を引き付けることによって成長するのです」(福音の喜び、14)

神のいつくしみの顔、福者ユスト高山右近
   高山右近は(1552―1615)、今年の2月に福者に列せられました。右近は、キリストの教え・愛の言葉・贖いの業に魅了され、その確信により日本の福音宣教の不屈の推進者となりました。その姿は、真のキリストの武人であり、戦に長けた剣ではなく、言葉と業による武人でありました。その結果、右近は特権的な地位・財産を失い、追われる身となり、暮らしにも困窮する日々を送りながらも、気落ちすることなく、平静を保ち、強い信仰を持ち続けたのです。処刑による死を予感し続けた右近でありましたが、その殉教は、血を流す殉教ではなく、流刑による引き延ばされた死であり、十字架のキリストの苦しみに与ることになりました。
   自分を迫害する人々のために祈り、彼らを赦し、日本社会の回心を念じて命を捧げた右近は、不和と迫害が困難な時代にあっても、キリストへの信仰を卓越した方法で証ししました。身分の枠を超えて、貧者を助け、病人を見舞い、寛大な施しをし、父ダリオと共に身寄りのない人の埋葬を行なったユストの行いは、深い霊性に養われた慈愛の業であると言えます。このように、右近が日本の教会とすべての信者に残したものは、「偉大な信仰の宝」であり、現代に生きるわたしたちは、この宝を自分の信仰の模範として仰ぎ、同じ道を歩むように求められています。

詳細は https://www.facebook.com/20170207Justo/posts/1690814840960770f:id:nipponblog:20171006165512j:plain

 

福音宣教とは (1)

   キリスト信者にとって、世界宣教は最大のいつくしみのみわざです。宣教の使命を果たすため教会は、いまだにイエスの福音を知らない人々に温かく語りかけ、物的・精神的のあらゆる側面の救済を図りつつ、主の愛、平和といつくしみを味わってほしいと望んでいます。2017年の世界宣教の日に当たって、教皇フランシスコは、次の点に関しての熱心な努力を呼び掛けておられます。

1.和解と協調のために働く信徒の模範とあかしによって福音の力が示され、あらゆる不和・対立・利己主義・人種差別等から生じる「違い」の垣根を乗り越えて、すべての国と地域において真の平和・相互理解と共有のきずなが深まりますように。

2.町の広場やあらゆる出会いの場で、イエスの生き方と価値観を広めるように、青年や若い世代の人に美しい証をよびかけています。 

『人をキリスト信者とするということは、理論的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです。この出会いが、人生に新しい展望と決定的な方向付けを与えるからです。』」(福音の喜び、7)

 もっと知りたい方は下記のリンクまでどうぞ

https://www.facebook.com/20170207Justo/posts/1669140766461511

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天の国のまなざし

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー (マタイ20章1~16節)

 本日のたとえ話を読んで、主人の態度に対して「一日中働いた人に1デナリオン。一時間しか働かなかった人にも1デナリオン。これはおかしいのでは?」と首をかしげる人も少なくないでしょう。私たちの感覚で考えると、一日中働いた人たちには、少なくとも8デナリオンが支払われるはずです。しかし、「1デナリオン」というのは、当時の日給だったそうです。つまり、主人の行為は不当でも何でもないのです。

   天の国のまなざしで、世の営みを見てみましょう。日雇い労働者にとって、朝早く市場に行き、その日の仕事を得ることが毎日の希望と祈りでした。しかし、8時を過ぎたらその望みもなくなります。仕事を得られなかった人は、今日より明日がよくなりますようにと祈っているのです。ここが大きなポイントです。雇い主は、12時や3時、そして5時からも人を雇います。寛容な心で1デナリオンを与えることによって、雇われた人とその家族を絶望から救うことができます。雇い主は雇用の決まりを守りながら自分の気持ちを1デナリオンに託したのです。これが天の国の判断基準です。

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死ぬ心構え 

   死はしばしば突然やって来ます。交通事故、病気、戦争、災害などなど。健康で力がみなぎっているときには、自分の死について考えることはありません。それにも拘わらず、死は全く思いがけずにやって来ます。どうすれば死に備えることが出来るでしょうか。決着のついていない人間関係上の問題を、一切残さないようにことによってです。要はこういうことです。自分を傷つけた人をゆるしたでしょうか。また、自分が傷つけてしまった人にゆるしを乞うたでしょうか。

   わたしの人生の一部であったすべての人々と心安らかな関係でいるなら、わたしの死は大きな悲しみとなることはあっても、後ろめたさや怒りをもたらすことはないでしょう。どんな時にも死ぬ準備が出来ていると、どんな時にも生きる準備もまた出来ています。 

      H.ナウエン、「今日のパン、明日の糧」、聖公会出版、2003年、291項

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教会・人と建物

福音箇所は Laudate | 教会カレンダー(マタイ18章15~20節)

   通常、皆さんは「教会」と聞けば、「〇〇教会」と書かれた建物を思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、これは本来の意味ではありません。日本語の「教会」とは、ギリシャ語の「έκκλησία(エクレージア)」の翻訳ですが、本来は「呼び集められた者」を意味します。つまり、「エクレージア」とは人々の集会を指す言葉であり、建物と関係はないのです。

    本来の意味に立ち返って考えるなら、キリストの名のもとに人々が集まることで、「教会」が成り立ちます。

    神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。(第1コリントの教会への手紙1章 1節)

    上記の書簡に書かれているように、教会とは、明確に人のことを指していることが分かります。そのため、建物としての「教会堂」や「聖堂」と、信じる人々の集まりである「教会」とを区別することが大切なのです。

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被造物を大切にする世界祈願日

   教皇フランシスコは2015年、回勅「ラウダト・シ」を発表した。去年、「共に暮らす家を大切に」という副題と共に翻訳が出版された。「わたしたちの家、地球を大切に」という『回心』を呼びかける教皇メッセージに、どれだけの人が耳を傾けて実行しているのだろうか。9月第1日曜日は『被造物を大切にする世界祈願日』。「神さま、どうにかしてください」と祈るかもしれない。でも神は「あなたがどうにかしなさい」とわたしたちに言っていると思う。地球は危機に瀕しているのに、そこに住むわたしたちは何も変わらないで、いつまでも「今までのまま」でいるのだろうか。

     大気、海洋、河川、土壌の汚染、生物多様性の喪失、森林破壊、温暖化、砂漠化、山積された廃棄物。人間の活動が他者と全被造物とに与える影響に関する、連帯と正義の観点からの考察。しわ寄せを被る開発途上国と将来世代に対し、担うべき責任とは何かを問う。

   「わたしたちの後に続く人々、また今成長しつつある子供たちのために、わたしたちは一体どのような世界を残していきたいのでしょうか」(「ラウダト・シ」n. 160)

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「イエス・キリスト」

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー  (マタイ16章13~20節)

   日本語で欧米人の名前を書く時、私の本名のレナト・フィリピーニのように、名前と姓の間に「・」が表記されます。しかし、イエス・キリストの場合、「イエス」が名前で、「キリスト」が姓という意味ではありません。「キリスト」はヘブライ語の「メシア」をギリシャ語で表した形であり、本来の意味は「油を注がれた者」なので、キリストは固有名詞ではないのです。

   旧約聖書では、「油を注がれた者」とは王や祭司、そして預言者に対して用いる言葉でした。その後、民を圧政から解放し、救いに導く指導者を表すように変化していったのです。新約聖書の時代、「メシア」という概念は期待に満ちたものであり、政治的・社会的な救い主というイメージが強かったようです。特に、ローマ帝国からイスラエルを解放し、王国を再建してくださる栄光の救い主への期待が高かったのです。

   そして初期のキリスト教徒は、十字架上で処刑されたイエスこそ神の子であり、救い主メシア、すなわち「キリスト」であると確信したのです。それから、イエス・キリストとは「救い主イエス」という意味で、信仰を簡潔に告白する言葉ができたのです。

 下に宇宙支配者であるキリスト(モサイク、ドゥオモ、チェファル、南イタリア

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