福音宣教とは (5)

福音の心を証した人 (シャルル・ド・フーコー, 1858 – 1916)

    1858年、フランスのストラスブルグで生まれました。多感な思春期に信仰を失い、無規律な生活を過ごしますが、軍人になり、モロッコ探検を機に神の現存に心を揺り動かされ28歳で回心します。ナザレで、イエスの生きた姿を具体的に発見し、この時から全生涯をあげて神に身を捧げ、キリストにつき従いたいと望みます。 

    司祭になり、アルジェリアサハラ砂漠で、遊牧民であるトゥアレグ族の友であろうと努め、奴隷制度と闘い、言葉と文化を学び、トゥアレグ叙事詩を収集し、タマハク語の辞書を編纂します。こうして、キリスト教への改宗を求めるのではなく、全生活をあげて「福音を叫びたい」と切望するのでした。

  自分をイエスの小さい兄弟シャールと呼び、イエスの体と血の捧げものである聖体のうちに、神の現存と、傷ついた人類を癒し救うその愛を見、他者へと向かい、人々の中に共にいるという友愛と献身の美しい模範を示しました。1916年12月1日、第一次世界大戦中、友であるトゥアレグ人の中に最後までとどまろうとして裏切られ、暗殺されたのでした。 

詳細は https://www.facebook.com/20170207Justo/posts/1717981558244098

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福音宣教とは(4) 

「力あるかたがわたしに偉大なことをなさいましたから」(ルカ1・49)。 

  「おとめマリアが受けた偉大なたまものの一つは信仰です。神を信じることははかりしれないたまものですが、それを受け入れることを必要とします。マリアの賛歌」は、一人の信仰あふれる若者による革新的な祈りです。マリアは自分の限界を認め、神のいつくしみを信頼しています。この勇敢な娘は、神が身分の低い自分に目を留めてくださり、貧しく謙遜な人々のために救いのわざを行ってくださることに感謝しています。信仰はマリアの全生涯の中心です。 神が若者の心に触れると、その若者は真に偉大なことができるようになります。

 全能の神がマリアの人生においてなし遂げた「偉大なこと」は、わたしたち自身の人生の旅路にも当てはまります。 皆さんはわたしにこう言うかもしれません。『教皇様、わたしには限界があります。わたしは罪人です。わたしに何ができるでしょう』。 皆さんも若いマリアと同じように、自分の人生を、世界をよりよくするための道具にすることができます。イエスは人生に足跡を残すよう呼びかけています。それは皆さん自身の歴史だけでなく、他の多くの人々の歴史にも残る足跡なのです。」

 (2017年、世界青年の日、教皇メッセージ) 

 詳細は 

うー こんどの - 宣教の月、第4週目です。 ひとりの人間としてできることはわずかです。... | Facebook

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福音宣教とは (3)

  「相手の外見、能力、ことばの遣い、気質には関係なく、また、与えられる自己満足ゆえでもありません。すべての人は神の作品、神の被造物であるがゆえなのです。すべての人間が主の無限のいたわりの対象です。」(福音の喜び、274)

 

ネルソン・マンデラ

    アパルトヘイト体制を批判していたマンデラは1964年に国家反逆罪で終身刑となり、収監は27年にも及びました。初めての自由選挙によって初の黒人大統領に選ばれ、白人・黒人間、そしてあらゆる対立をいかにして収めるか、さらに、全人種を融和させることに全人生を捧げました。1993年にノーベル平和賞を受賞。

 

ゼノ・ゼブロフスキー

    “アリの町の神父”と呼ばれるゼノ・ゼブロフスキーは、マキシミリアノ・マリア・コルベ神父と共に来日しました(1930年)。半世紀にわたって日本の貧しい人々のために歩き続け、浅草のバタヤ街の人々を十字架の下に自立更生させた「アリの町づくり」は映画にもなり「アリの町の神父」として有名になりました。「白いヒゲ・黒の修道服に黒いカバン、黒いドタ靴」が代名詞のゼノさん。    

 

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福音宣教とは(2)

「教会は強引な改宗活動によってではなく、人を引き付けることによって成長するのです」(福音の喜び、14)

神のいつくしみの顔、福者ユスト高山右近
   高山右近は(1552―1615)、今年の2月に福者に列せられました。右近は、キリストの教え・愛の言葉・贖いの業に魅了され、その確信により日本の福音宣教の不屈の推進者となりました。その姿は、真のキリストの武人であり、戦に長けた剣ではなく、言葉と業による武人でありました。その結果、右近は特権的な地位・財産を失い、追われる身となり、暮らしにも困窮する日々を送りながらも、気落ちすることなく、平静を保ち、強い信仰を持ち続けたのです。処刑による死を予感し続けた右近でありましたが、その殉教は、血を流す殉教ではなく、流刑による引き延ばされた死であり、十字架のキリストの苦しみに与ることになりました。
   自分を迫害する人々のために祈り、彼らを赦し、日本社会の回心を念じて命を捧げた右近は、不和と迫害が困難な時代にあっても、キリストへの信仰を卓越した方法で証ししました。身分の枠を超えて、貧者を助け、病人を見舞い、寛大な施しをし、父ダリオと共に身寄りのない人の埋葬を行なったユストの行いは、深い霊性に養われた慈愛の業であると言えます。このように、右近が日本の教会とすべての信者に残したものは、「偉大な信仰の宝」であり、現代に生きるわたしたちは、この宝を自分の信仰の模範として仰ぎ、同じ道を歩むように求められています。

詳細は https://www.facebook.com/20170207Justo/posts/1690814840960770f:id:nipponblog:20171006165512j:plain

 

福音宣教とは (1)

   キリスト信者にとって、世界宣教は最大のいつくしみのみわざです。宣教の使命を果たすため教会は、いまだにイエスの福音を知らない人々に温かく語りかけ、物的・精神的のあらゆる側面の救済を図りつつ、主の愛、平和といつくしみを味わってほしいと望んでいます。2017年の世界宣教の日に当たって、教皇フランシスコは、次の点に関しての熱心な努力を呼び掛けておられます。

1.和解と協調のために働く信徒の模範とあかしによって福音の力が示され、あらゆる不和・対立・利己主義・人種差別等から生じる「違い」の垣根を乗り越えて、すべての国と地域において真の平和・相互理解と共有のきずなが深まりますように。

2.町の広場やあらゆる出会いの場で、イエスの生き方と価値観を広めるように、青年や若い世代の人に美しい証をよびかけています。 

『人をキリスト信者とするということは、理論的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです。この出会いが、人生に新しい展望と決定的な方向付けを与えるからです。』」(福音の喜び、7)

 もっと知りたい方は下記のリンクまでどうぞ

https://www.facebook.com/20170207Justo/posts/1669140766461511

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天の国のまなざし

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー (マタイ20章1~16節)

 本日のたとえ話を読んで、主人の態度に対して「一日中働いた人に1デナリオン。一時間しか働かなかった人にも1デナリオン。これはおかしいのでは?」と首をかしげる人も少なくないでしょう。私たちの感覚で考えると、一日中働いた人たちには、少なくとも8デナリオンが支払われるはずです。しかし、「1デナリオン」というのは、当時の日給だったそうです。つまり、主人の行為は不当でも何でもないのです。

   天の国のまなざしで、世の営みを見てみましょう。日雇い労働者にとって、朝早く市場に行き、その日の仕事を得ることが毎日の希望と祈りでした。しかし、8時を過ぎたらその望みもなくなります。仕事を得られなかった人は、今日より明日がよくなりますようにと祈っているのです。ここが大きなポイントです。雇い主は、12時や3時、そして5時からも人を雇います。寛容な心で1デナリオンを与えることによって、雇われた人とその家族を絶望から救うことができます。雇い主は雇用の決まりを守りながら自分の気持ちを1デナリオンに託したのです。これが天の国の判断基準です。

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死ぬ心構え 

   死はしばしば突然やって来ます。交通事故、病気、戦争、災害などなど。健康で力がみなぎっているときには、自分の死について考えることはありません。それにも拘わらず、死は全く思いがけずにやって来ます。どうすれば死に備えることが出来るでしょうか。決着のついていない人間関係上の問題を、一切残さないようにことによってです。要はこういうことです。自分を傷つけた人をゆるしたでしょうか。また、自分が傷つけてしまった人にゆるしを乞うたでしょうか。

   わたしの人生の一部であったすべての人々と心安らかな関係でいるなら、わたしの死は大きな悲しみとなることはあっても、後ろめたさや怒りをもたらすことはないでしょう。どんな時にも死ぬ準備が出来ていると、どんな時にも生きる準備もまた出来ています。 

      H.ナウエン、「今日のパン、明日の糧」、聖公会出版、2003年、291項

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