周囲に管理されることに気付く

   古代ギリシャの哲学者であるソクラテスは、「目覚めていない人生は生きるに値しない」と言いました。ほとんどの人は、悟ることなく人生をおくっています。機械的に生き、機械的に考え、機械的に答えを出します。テレビを見ていると、些細なことで泣き出すキャスターや観客が映っており、情緒まで機械的になっているように感じます。さらに、日常生活の場でも、お店のドアのチャイムが鳴ると、すぐに「いらっしゃいませ」や「ありがとうございました」と言い、機械のように行動し、機械のように反応する姿を目にするはずです。

    実際に、自分がどれほど機械的であるか知りたいでしょうか。例えば、あなたが誰かに「いいね」と言われると良い気分になるのであれば、反対に「マトモじゃないね」と言われると気分を害する覚悟をしたほうがいいでしょう。どんな服を着ているか、髪をきちんと整えているか、靴を磨いているかどうかなど、他人の忌ま忌ましい期待に一つ一つ忠実に答えているかを考えると、自分が機械的であるかどうか気づくことでしょう。そのような振る舞いは、人間的だと言えるでしょうか。

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「目覚める」と霊性

福音箇所は Laudate | 教会カレンダー

   2000年頃からスピリチュアル・ブームが起こり、それに関連するグッズや書籍が店頭に並ぶようになりました。それらを購入する人の多くは、霊的なものにすがろうとしており、夢中になっている人が後を絶ちません。「霊性」という言葉をご存知でしょうか。これは「目覚めること」を意味し、一般的な「スピリチュアル」とは少し違います。「霊性」とは、日常生活に存在する物事を通して気づき、神秘的な体験ができることなのです。この視点から考えてみると、ほとんどの人は「眠っている」と言っても過言ではありません。人々は「眠っている間」に大人になり、結婚し、子どもを育て、そしてそのまま死んでいきます。人間の存在を意識することなく、自身の人生やその美しさを理解していないのです。ここで、一つの物語を紹介しましょう。

    ある人がワシの卵を見つけ、それをめんどりの巣の中に入れた。 ワシはニワトリの雛とともに孵化し、成長した。ワシは自分がニワトリであると思い、ニワトリの雛がするのと同じようにした。ミミズや昆虫を捕まえるために、地面をかいた。ワシなのに、「コッコッ」と鳴いた。羽をばたつかせ、数十センチ飛んだ。年月が過ぎ、ワシは年をとった。ある日、雲のない空に壮大な鳥が飛んでいるのを見た。強風の中、力強い黄金の翼を激しく動かすこともなく、優雅で威厳ある姿で滑空していた。年老いたワシは畏敬の念を持って見上げていた。「あれは誰?」とワシは尋ねた。隣にいたニワトリは、「鳥の王であるワシです。ワシは空の住人です。私たちは地上の住人です。なぜならニワトリだからです。」ワシはニワトリとして生き、死んでいった。自分のことをニワトリだと思っていたからだった。

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地球の誕生と成長 聖書週間に当たって(2) 

   天才アインシュタインが初めて相対性理論を思いついたのは1905年でしたが、そのとき彼はまだ、宇宙とは永遠不変の存在と確信していました。しかし1929年に、天文学者ハッブルが、宇宙は膨張し続けていることを立証したのです。今日では、宇宙には1~2兆の星雲が高速度で広がっていると言われています。宇宙の源であるビッグバンが起きたのは今から137億年前で、地球は45億年前に生まれたと計算されています。そして、数億年かかって地球の動きにより陸と海の形が整っては全滅し、それが数回くり返されたと言われます。

  地球には今まで3千万種類の生物が現れ、なくなり、また新しく生まれることを繰り返したと、地質学者たちが教えています。そして、人間(ホモ・サピエンス)は、石器時代の少し前、つまり10万年前に姿を現しました。その後、今から1万年前に農業が始まって人口が増加し、紀元前1500年には、人類の人口がもう5億人を超えていました。 聖書に登場するアブラハムは、紀元前1850年ごろにカナンに到着。私たちに伝わる旧約聖書の歴史背景の始まりです。

(ヴァチカン天文台、「宇宙を探検する、神学への科学の挑戦」2016年)。

 

創造神学と現在の科学、山野内 倫昭、聖書週間2017年。

詳細は 聖書週間 2017年11月19~26日 | カトリック中央協議会

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創世記を読み直す ー 聖書週間に当たって(1)

     聖書の一番初めの物語である創世記は、天地が創られたというより、その当時の人々にとっての苦しみがいつ始まったかということに関心があったようです。歴史的な背景として、紀元前6世紀から8世紀にかけて、祖国を奪われ隣国の支配下に置かれます。そして、神殿も破壊され、異国の地に連れられて行くのです。この悲惨さを経験している民に対して、創世記は苦しみの中に置かれた民に、希望をあたえる物語なのです。

         創世記1章から11章までの主なテーマは、人類が経験する苦しみの由来を説明しています。3章からアダムとイブの過ちや人類最初の殺人とされるカインとアベルの物語、そして広まった悪を一掃する洪水、さらにはバベルの塔の物語へと展開していきます。それらの物語の前に置かれている1章と2章を見てみましょう。1章1節にある「はじめに」ということばは、「元々、悪は存在しなかった。まず、神はすべてを美しく輝かしく創ったのだ。」ということを思い起こさせる希望のメッセージがあります。

     創世記は、罪と悪のなぞを解明しようという意図で編集されています。天地の構造を説明するのではなく、天国への道を示しているのです。

画像ー ローマシスティナ礼拝堂、ミケランジェロによるアダムの創造

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眠った後再び立ちあがる

福音箇所は Laudate | 教会カレンダー  (マタイ25章1~13節)

   車は便利です。二人、三人と乗って遠いところまで行くことができ、重くて大きな荷物も簡単に運ぶことができます。しかし、遠くまで走らなくても、そして何も運ばなくても、車が動くためにはガソリンが必要です。車には、ガソリンがどれくらい入っているのかを示す目盛りがあります。ガソリンが少なくなってきた時、知恵ある運転手はガソリンスタンドに行くのです。

    生きるためには、人生の生きがいというガソリンが必要です。最初は満タンでも、生きている間に、知らず知らずのうちに少しずつ減っていきます。たとえ話では、「皆眠気がさして眠り込んでしまった」と書かれています。人生にはさまざまな迷いや紆余曲折がありますが、その度にガソリンが大量に消費されるのです。その時に気づくことが大切ですが、なくなった時の対応も重要です。まず、私たちは弁明したり自分を正当化したりしがちですが、周囲の人やその状況を原因としないようにしましょう。自分の人生に必要なことや欠けているものを求め、それらを手に入れた後、再び人生の旅を続けましょう。人生の旅において重要なことは、どれぐらい時間を使うかや中断するということではなく、目的地にたどり着くことなのです。

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正しく生きる、正しく語る 

福音朗読は   Laudate | 教会カレンダー(マタイ23章1~12節)

   神の証し人となるということは、この世界に神がおられることの生けるしるしとなることです。どのような生活をしているかということのほうが、どんなことを話しているかということよいも大切です。というのも、本物の生き方は、常に本物の話し方に繋がるからです。隣人を心から許すとき、私たちの心は許しの言葉を語るでしょう。感謝の思いに溢れるとき、感謝の言葉が語られ、期待と喜びに溢れるとき、期待と喜びの言葉が語られるでしょう。

    言葉が時期尚早に語られても、その言葉の通りに行っていないなら、私たちは二重のメッセージを伝えかねません。言葉と行いがちぐはぐなままかたるこき、私たちはその二重のメッセージによって偽善者となってしまうでしょう。私たちの生き方が本物の言葉を私たちに語らせ、言葉が私たちを本物の生き方へと導きますように。

 

                        H.ナウエン、「今日のパン、明日の糧」、聖公会出版、2003年、218項

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福音宣教とは (5)

福音の心を証した人 (シャルル・ド・フーコー, 1858 – 1916)

    1858年、フランスのストラスブルグで生まれました。多感な思春期に信仰を失い、無規律な生活を過ごしますが、軍人になり、モロッコ探検を機に神の現存に心を揺り動かされ28歳で回心します。ナザレで、イエスの生きた姿を具体的に発見し、この時から全生涯をあげて神に身を捧げ、キリストにつき従いたいと望みます。 

    司祭になり、アルジェリアサハラ砂漠で、遊牧民であるトゥアレグ族の友であろうと努め、奴隷制度と闘い、言葉と文化を学び、トゥアレグ叙事詩を収集し、タマハク語の辞書を編纂します。こうして、キリスト教への改宗を求めるのではなく、全生活をあげて「福音を叫びたい」と切望するのでした。

  自分をイエスの小さい兄弟シャールと呼び、イエスの体と血の捧げものである聖体のうちに、神の現存と、傷ついた人類を癒し救うその愛を見、他者へと向かい、人々の中に共にいるという友愛と献身の美しい模範を示しました。1916年12月1日、第一次世界大戦中、友であるトゥアレグ人の中に最後までとどまろうとして裏切られ、暗殺されたのでした。 

詳細は https://www.facebook.com/20170207Justo/posts/1717981558244098

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