イエスに出会った人々 ⑤ ザアカイ(ルカ19章1-10節)

お手持ちの聖書で該当箇所を読んでいただくか、

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      ザアカイは背が低かったので木に登りました。すると、新しい世界が見えてきました。実際は同じ世界ですが、新しい視点から見たために全く違ったものに見えたのです。ザアカイが見たのは、まさにその世界です。彼の仕事は、ローマ帝国の徴税人でした。自分の利益のために税金を多く集める傾向があったため、人々から嫌われ、また宗教的に罪人(つみびと)と見なされていました。そんな彼が勇気を出し、皆の前で木に登るという奇妙な行動をとりました。すると、突然新しい出会いに招かれ、ザアカイにとって思いがけない第二の人生の始まりに応えていくようになるのです。

     「今日はぜひあなたの家に泊まりたい」とイエスに話しかけられると、ザアカイは取り乱すのではなく、急いで降りてきて、喜んでイエスを受け入れました。生気に満ちた動的な応えではないでしょうか。ここでの「急ぐ」という表現は加速のことではなく、いのちの鼓動です。イエスからの呼びかけは、警告や命令でもなく、福音すなわち良い知らせでした。そのため、彼の喜びが溢れたのです。

 ***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の撮影です。

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イエスに出会った人々 ④ ペトロ (ルカ福音5章1−11節)

お手持ちの聖書で該当箇所を読んでいただくか、

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   イエスが自分の舟を選んだので、おそらく、ペトロは心が弾んでいたことでしょう。けれども、この後、その気持ちは一変してしまうのです。イエスから船を沖に出すようにと頼まれたものの、夜通し魚をとろうと苦労したが、何もとれなかったというペトロの答えから、イエスのことばに疑いを持っていると推測することが出来ます。

    イエスに対するペトロの信頼が揺らぐ難しい瞬間ですが、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」というペトロの応答から、危険と恐れを越えて、イエスの言葉を信頼しようと心に決めた瞬間であることがわかるのです。

    勇気ある決断を必要とする時、利害の範囲を超えて、自分に賭けてみるという経験をしたことはないでしょうか。私たちは、他者を信頼して身を任せるという少しばかりの冒険を通して鍛えられていくのです。この体験から信頼が芽生え、個人的な関係から社会までもが築かれていくのです。

 ***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の撮影です。 

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イエスに出会った人々 ③ イエスの服に触れる女性(マルコ5章25-34節)

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    イエスの周りには、群がる無名の群衆がいます。その中の大半の人々の体は、実際にイエスに触れていますが何も起こりません。しかし、一人の女性の個性ある人格が群衆の中で際立ち始めるのです。この女性は、明確な意志を持って一つの計画を実行に移します。イエスを深く信頼しているので、イエスの衣の房に触れ、癒していただこうと考えたのです。本日の箇所では、「触れる」という動詞が5回も出てきます。群衆が押し迫る様子と違って、丁寧に相手に近づき、イエスと出会うのです。

    「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」という表現に対して、皆さんは何か感じませんか。占いやパワーストーンなど、表面的な治療へ飛んで行く現代人に当てはまるように思われます。しかし、心は病んだままです。ところが、群衆に阻まれているこの女性は、「後ろから」イエスに近づいていきます。無名な群衆から出て行く彼女の姿は、私たちに勇気を示してくれているのです。その勇気があったからこそイエスと出会い、対話ができたのです。

 ***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の撮影です。

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イエスに出会った人々 ② ニコデモ (ヨハネ福音3章1−15節)

お手持ちの聖書で該当箇所を読んでいただくか、

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    ニコデモという人物は、ユダヤ人のエリート集団の中で相当の地位にあり、神の道を真面目に問い続けていた人でした。ニコデモは、イエスのうわさを聞いて一度会ってみたいと考えましたが、ユダヤ教の権威者は、イエスのことを異端者として白い目で見ていました。しかし、ニコデモは隠れたイエスの弟子と言っても過言ではないのです。

    ニコデモもイエスも師ですが、二人の問答の仕方は異なっています。ニコデモは、短く懐疑的な応答であるのに対し、イエスの問答は意味深いことばで展開されます。

    周囲の反応や批判などを恐れ、日々の生活の中で自分の生きる意味を問い続け、「ある夜」のニコデモのように、密かにイエスに惹かれている多くの人がいるのではないでしょうか。自分の体験も含めて、イエスが話すことばの意味が分からないけれども、イエスに話したい気持ちがあるように思われます。難しく複雑な対人関係の中でも、イエスの「新たに生まれる」という呼びかけに耳を傾けましょう。神の風に吹かれて、その命の香りを味わいたいものです。

***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の撮影です。

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イエスに出会った人々① アンデレ  (ヨハネ1章35―43節)

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   歩いているイエスを見て、ヨハネが「見よ、神の子羊だ」と言いました。それを聞いたヨハネの弟子は、イエスに従っていき、イエスのところに泊まりました。弟子の一人のアンデレは、ペトロを連れてイエスと出合ったのです。

    この福音箇所に登場する「泊まる」という動詞を通して、信仰の歩みを見ることができます。「午後4時ごろ」は、当時の時間の計り方で「日没がせまり次の日が始まる」という意味です。弟子たちにとっては新しい出発を意味し、イエスのもとにとどまり始めることなのです。

    キリスト者になる基本的なことは、まずイエスとともに「泊まる」、つまりイエスと交わり、人生を共有することです。また、本当のイエスとの出会いは、閉鎖的な関係ではなく、出会いから分かち合い、そして共有へと発展していきます。この歩みは、信仰の歩みです。イエスの弟子というのは、生まれついたものではなく、成長とともにイエスのもとに泊まり、生涯泊まり続けることなのです。    

   ***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の撮影です。 

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新年のご挨拶

FBを通してつながっている皆さまへ

 あけましておめでとうございます。昨年も愛読していただき、心から感謝いたします。

次回より、イエスに出会った人々を中心に、彼らの性格や登場場面、イエスに対する反応などを紹介していきたいと考えています。おそらく、彼らのイエスとの関わり方を通して、共感など何か得るものがあるのではないかと期待しています。

 今年もよろしくお願いします。

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親子関係  聖家族の祝日に当たり

  「子どもとは、いちばん大切な客人だ。子どもたちは家の一員となり、特別に面倒をみなければならず、しばらくのあいだ家に留まりから、自分自身の道を歩むために去っていく。親が息子や娘のすることすべてに責任があると思い、子どもに対してある親の罪悪感を感じていることが多いが、子どもたちが客だという意識を持てばそれが解放に繋がる。

  親であることの難しさは、子どもが育ち、身心と共にひとり立ちできる自由を自分のものに出来るように助力することにある。親にとっての誘惑はこどもに執着し、自分自身が到達できなかった目標を押しつけ、直接間接にどれほど自分に恩があるかをほのめかすことだ。成長するまでの何年もの間愛情を注ぎ、手塩にかけたこどもがさっていくのを目のあたりするのは本当に厳しいことだ。 

  しかしかれらにもまた、親が知らず、押しづけることも出来ない自分自身の道筋があって、一時的に家にとどまっている客なのだと自分に言い聞かせれば、おそらく穏やかに子どもの前途を祝福して立ち去らせることが出来る。」

H。ナウェン、「差し伸べられる手、真の祈りへの三つの段階」、女子パウロ会(pp.102~106)。

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