イエスに出会った人々⑬ 耳が聞こえず舌の回らない人(マルコ7章31-37節)

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    福音書には、耳が聞こえず口も利けないため、人間関係だけではなく社会的にも非常に不自由な状況におかれている人が登場します。人間は、耳と口を通して周囲との関係を作り上げ、そのつながりによって交流し、また共有するのです。私たちは、「聞くこと」と「話すこと」、つまりコミュニケーションをとることによって、お互いに気持ちや意見などを伝えます。

    人間関係という視点から見ると、彼は人間同士でのコミュニケーションを奪われています。耳が聞こえないため、周囲から届くはずの「音」が遮断され、自分の内に固く閉じこもっています。また、舌が回らないため、気持ちや感じていることを相手に伝えることができません。要するに、孤立している存在なのです。

      しかし、イエスと触れ合うことによって、話すことも聞くこともできるようになりました。複雑な人間関係に悩まされている私たちは、このような接な出会いにめぐり合いたいものです。

 ***写真とことばはロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の提供です。

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イエスに出会った人々⑫ 妹のマリア(ルカ10章38から42節)

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    イエスは二人の姉妹の家に滞在していましたが、このエピソードを読むたびに、マルタとマリアの対立という解釈をしてしまうことが多いでしょう。マルタはマリアを批判し、当時の社会の常識に従って「女性らしい」振舞いを求めています。一方で、マリアは落ち着いた様子でイエスの足もとに座り、その話に聞き入っていました。マルタと同じようにせわしなく動く私たちにとって、マリアのような姿は不可能だと考える人も少なくないでしょう。 

   しかし、マリアは別世界に属するものではありません。実は、イエスの足もとに座るというマリアの行為は、非常に勇気が必要なことなのです。なぜなら、彼女は女性に対する当時の宗教の常識、すなわち「女に律法を教えることは時間の無駄」という教えに挑戦しているからです。律法を学び、それに聞き従うことは敬虔な男性ユダヤ教徒の態度です。マリアは大胆にも、当時の男性と同じ態度を取っているのです。

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イエスに出会った人々⑪ トマス(ヨハネ20章24から28節)

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     復活したイエスが弟子たちのところに現れた時、トマスは彼らと一緒にいませんでした。彼は、最後までイエスに従うという覚悟を果たせなかった自分に失望し、他の弟子たちにも失望していました。「主を見た」という弟子たちからの知らせに対して、トマスは傷跡の証拠を繰り返し求めました。トマスにとって、弟子たちが見た主と十字架にかけられたイエスとが繋がらなければ、信じることができなかったのです。

     「ディディモ」は「双子」という意味です。トマスは他の弟子たちに対して、頑固で閉鎖的な姿を見せていましたが、イエスに出会うことで心が解放され、信仰告白の叫びである「わたしの主、わたしの神」と言いました。私たちの中には、恐れや疑いという信仰と相反する気持ちが同時に存在しています。トマスと瓜二つではないでしょうか。しかし、この「トマス」の状態があるからこそ、復活したイエスとの出会いにさらなる豊かさが加わるのです。

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イエスに出会った人々⑩ マグダラのマリア(ヨハネ20章11~15節)

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    マグダラのマリアは、墓の外に立って泣いていました。彼女はイエスの死によって将来への希望を失い、嘆いていました。福音書に書かれている「置く」という表現は、「埋葬する」や「納める」、そして「大切にする」という意味があります。ここでは、マグダラのマリアが亡くなったイエスの思い出を心に残すということであり、過去についての表現となります。

     しかし原文では、同じ動詞であるにもかかわらず、別の意味で使われています。例えば、ヨハネ福音書10章には、「わたしは良い羊飼いである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。」と書かれています。「捨てる」とは、将来に向かってこれから行われることを示し、未来へ向けた表現となるのです。

      イエスは命を置きました。マグダラのマリアは、自分のこれまでの人生をイエスのもとに置きました。復活したイエスに出会うことによって、マリアは過去にしがみついた生き方から、未来へ向けて力強く歩き始めます。私たちも過去から未来へと向きを変えて生きるように、復活したイエスによって促されているのです。

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イエスに出会った人々⑨ 姦通の現場で捕らえられた女性(ヨハネ8章1-10節)

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    捕まえられた女性は、被告人として真ん中に立たされました。律法で定められているため、彼女は投げられる石の的となるのです。一方、律法に基づいて石を投げようとした告発者たちは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」というイエスの言葉によって、何もせずにその場を去って行ったのです。

    「真ん中」とは、平等が与えられた場所で、互いの存在が認められ、他者と触れあう機会になります。姦通を犯した女性は、自分の目の高さに合わせ、イエスから「婦人よ」と声をかけられたことにより、人間としての尊厳を与えられ、認めてもらいました。「あなたを罪に定めない」というイエスの宣言を、彼女はどのように受け取ったのでしょうか。「あなたの死を望まない」や「生きなさい」という読み方もあれば、「新たな人生を歩みなさい」とも解釈できるでしょう。彼女の心情はどうだったのでしょうか。もう一度真ん中に立ってもらい、話を聞きたいものです。

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イエスに出会った人々⑧ 盲人(マルコ10章46~53節)

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   道端に座って物乞いをしている盲人がいました。彼の生活は、他者の寛容な心と施しによって成り立っていました。大勢の人が毎日道を歩いていましたが、盲人はその声と足音しか分からなかったのです。自分の周りの非常に狭い範囲でのみ行き来する人とつながっていたため、盲人は広い世界を知りませんでした。彼は知らない世界を見たい、すなわち人生の物乞いでもありました。ある日、イエスが来ているという騒ぎを耳にした彼は、イエスのところに行き、「見えるようになりたい」と切に願ったのです。

     聖書に描かれている「目」や「見る」という表現は、単なる視力を表しているわけではありません。人生の途上で、私たちは落ち込んだり、孤独を感じたり、他者から理解してもらえなかったりします。人間である限り、誰もがする経験です。将来が暗く、先が見えない時、そして何を支えに生きていけばよいのか分からない時、私たちは闇の中にいると言えます。信仰はこんな状況に置かれている私たちを支え、導いてくれます。信仰の目で人生を見つめることで、人生に光がさします。信仰を持つ人は、そのまなざしに基づいて生きていくのてす。

 ***写真とことばはロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の提供です。

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