イエスに出会った人々⑰ 洗礼者ヨハネ (ルカ7章18~23節)

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     洗礼者ヨハネは「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」と荒れ野で厳しく説きました。しかし牢にいる間、イエスの説く愛とゆるしの福音、つまり神の怒りではなく神の救いの噂を聞きました。そして、イエスのところに人をやって「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と尋ねさせたのです。

      「来るべき方」に対して、様々な期待がありました。ローマ帝国からイスラエルを解放し、王国を再建してくださる栄光の救い主への期待が特に高かったのです。洗礼者ヨハネの偉大さは、多くの人々の期待とイエスの行いを見分けることでした。彼は自分が持っている「来るべき方」のイメージを疑い、問い直したからです。

      私たちは、暮らしの中で個人的、文化的、また社会的な先入観を持っています。そして、自分が持っている先入観について、他者から問われる時があります。それに対して、先入観を問い直すか、それともさらに固執するかという選択肢があります。その選択肢によって、私たちの思想が広がり、協調性を持つことができるか、それとも狭い考え方のまま排他的になるかのどちらかになるのです。

***写真とことばはロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の提供です。 

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イエスに出会った人々⑯ カナンの女性(マタイ15章21~28節)

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   今回の人物は、カナンの女性でありながら、大胆にもイエスに挑戦しました。家父長制社会の時代では、女性は男性の所有物でした。しかも彼女は異邦人でありながら、イエスに願いを求めたのです。彼女は、悪霊にとりつかれた娘の快復のために、社会的なしきたりを破り、前に出てきました。願いを叶えてもらおうとしても、最初は無視され、また願いは拒まれてしまいました。しかし、あきらめずに願い続けたのです。

   この女性の態度から、私たちが人生を歩むためには勇気が必要不可欠であると感じることが出来ます。未知の物事に対して、勇気は必要です。疑問に縛られて、一歩も踏み出すことが出来ず、間違いを恐れて、躊躇してしまう場合が多いのではないでしょうか。人生は冒険であり、挑戦です。そして、人間として更に成長していくという試練なのです。

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イエスに出会った人々⑮  徴税人マタイ (マタイ9章9―13節)

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     当時の納税方法は、現在とは全く違うものでした。ローマ帝国の植民地だったイスラエルの国は、ローマから厳しく税金を取り立てられていました。そのため、マタイのような徴税人は、ユダヤ人から裏切り者と見なされていました。しかも、自分の利益のために税金を通常より多く集める傾向があったため、人々から嫌われ、宗教的に罪人(つみびと)と見なされていたのです。このようなマタイは、イエスから「わたしに従いなさい」と呼びかけられました。イエスのまなざしが自分に向けられた時、どのように感じたのでしょうか。


教皇フランシスコの紋章のモットー(バチカン放送局より抜粋、2013年3月18日)

    「憐れみ、そして選ばれた」は、聖ベーダ・ヴェネラビリス司祭の説教の言葉から取られているのです。この言葉は、教皇フランシスコの霊的生活において特別な意味合いを持つことになりました。1953年の聖マタイの祝日に、17歳だった若いホルヘ・ベルゴリオは、まったく特別な方法で、その人生における神の憐れみの現存を強く体験しました。その時、神の憐れみが自分自身の心の奥底に下ってきたことを強く感じたと、後に告白しています。マタイもこのような特別な体験をしたのでしょう。

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イエスに出会った人々⑭ サマリアの女性(ヨハネ4章6-30 節 )

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   サマリア人は、ユダヤ人と同じ民族でありながら、歴史的にも宗教的にも異母兄弟とみなされていました。福音書に登場する女性は異端者のサマリア人の一人であり、しかも6人の男性と暮らしてきたという道徳的にも道を外れた女性でした。

    井戸で水を汲むことは女性の仕事でした。彼女は、本来なら人に合わない時間帯に、井戸でイエスと出会いました。イエスに「水を飲ませてください」と頼まれた女性は、イエスから「生きた水」の話を聞いた後、今度は彼女自身が「その水をください」とイエスに頼みました。さらに、その女性は日常生活に欠かせない水瓶を置いたまま、イエスのことを知らせるために町へ行ってしまったのです。

    水は命に直結しています。福音書を読み、静かに祈るという機会は、イエスがいる井戸で心と体を休ませる時であり、また空間でもあります。その時、心の渇きがいやされるからです。イエスとの出会いが、日常生活を問うのと同様に、それを照らす機会になるのです。

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イエスに出会った人々⑬ 耳が聞こえず舌の回らない人(マルコ7章31-37節)

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    福音書には、耳が聞こえず口も利けないため、人間関係だけではなく社会的にも非常に不自由な状況におかれている人が登場します。人間は、耳と口を通して周囲との関係を作り上げ、そのつながりによって交流し、また共有するのです。私たちは、「聞くこと」と「話すこと」、つまりコミュニケーションをとることによって、お互いに気持ちや意見などを伝えます。

    人間関係という視点から見ると、彼は人間同士でのコミュニケーションを奪われています。耳が聞こえないため、周囲から届くはずの「音」が遮断され、自分の内に固く閉じこもっています。また、舌が回らないため、気持ちや感じていることを相手に伝えることができません。要するに、孤立している存在なのです。

      しかし、イエスと触れ合うことによって、話すことも聞くこともできるようになりました。複雑な人間関係に悩まされている私たちは、このような接な出会いにめぐり合いたいものです。

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イエスに出会った人々⑫ 妹のマリア(ルカ10章38から42節)

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    イエスは二人の姉妹の家に滞在していましたが、このエピソードを読むたびに、マルタとマリアの対立という解釈をしてしまうことが多いでしょう。マルタはマリアを批判し、当時の社会の常識に従って「女性らしい」振舞いを求めています。一方で、マリアは落ち着いた様子でイエスの足もとに座り、その話に聞き入っていました。マルタと同じようにせわしなく動く私たちにとって、マリアのような姿は不可能だと考える人も少なくないでしょう。 

   しかし、マリアは別世界に属するものではありません。実は、イエスの足もとに座るというマリアの行為は、非常に勇気が必要なことなのです。なぜなら、彼女は女性に対する当時の宗教の常識、すなわち「女に律法を教えることは時間の無駄」という教えに挑戦しているからです。律法を学び、それに聞き従うことは敬虔な男性ユダヤ教徒の態度です。マリアは大胆にも、当時の男性と同じ態度を取っているのです。

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イエスに出会った人々⑪ トマス(ヨハネ20章24から28節)

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     復活したイエスが弟子たちのところに現れた時、トマスは彼らと一緒にいませんでした。彼は、最後までイエスに従うという覚悟を果たせなかった自分に失望し、他の弟子たちにも失望していました。「主を見た」という弟子たちからの知らせに対して、トマスは傷跡の証拠を繰り返し求めました。トマスにとって、弟子たちが見た主と十字架にかけられたイエスとが繋がらなければ、信じることができなかったのです。

     「ディディモ」は「双子」という意味です。トマスは他の弟子たちに対して、頑固で閉鎖的な姿を見せていましたが、イエスに出会うことで心が解放され、信仰告白の叫びである「わたしの主、わたしの神」と言いました。私たちの中には、恐れや疑いという信仰と相反する気持ちが同時に存在しています。トマスと瓜二つではないでしょうか。しかし、この「トマス」の状態があるからこそ、復活したイエスとの出会いにさらなる豊かさが加わるのです。

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