「知ってるつもりキリスト教」⑭「わたしの記念として」

    最後の晩餐は、コリントの信徒への手紙一とヨハネ福音書以外の三つの福音書に詳しく記されています。当時、すでに各地に広がっていたキリスト教徒の共同体では、この最後の晩餐を記念する集い(後に聖餐式や主の晩餐、そしてミサと呼ばれるようになった)が行われており、パウロや福音記者たちの記録はそれに基づいていると考えられます。

    信者の共同体では、イエスが命じた「わたしの記念として行いなさい」という言葉に忠実に従って、イエスの死後もイエスの言葉や行いを思い起こすために共に集まり、その中で最後の晩餐を記念する儀式を行っていました。信者の集まりはやがて「教会」として発展していきますが、最後の晩餐の記念こそ、この信者の共同体である教会を生かす原動カとなり、現在に至るまで続けられています。最後の晩餐を記念することによって、イエスの死と復活は、絶えることなく告げ知らされているのです。

 宮越俊光著 『早わかりキリスト教』(日本実業出版社、2005年)参照。

***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の提供。

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「知ってるつもりキリスト教」⑬ 最後の晩餐とはどのような出来事なのか

   自らの死を覚悟したイエスは、エルサレムにたどりつくと弟子たちとの別れの食事をします。やがては捕らえられる自分の立場をよく理解して、自分の死がどのような意味を持つのかを弟子たちに伝えているのです。

    イエスはパンとぶどう酒を用いて、自分に待ち受けている運命を弟子たちに示します。当時のパンは円形の平たいものであって、他の人に分けるときは手で裂く必要がありました。イエスはパンを自らの手で裂くことによって、自分の体が引き裂かれるという「死」を象徴的に示そうとし、ぶどう酒は血によって立てられる「新しい契約」を表したのだと言われています。

    これを聞いた当時の人々は、モーセイスラエルの民がシナイ山で神と契約を結んだことを思い浮かべたはずです(出エジプト記24章)。動物をいけにえとして神にささげ、その血をもって神との契約のしるしとしたということです。

 宮越俊光著 『早わかりキリスト教』(日本実業出版社、2005年)参照。

***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の提供

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「知ってるつもりキリスト教」⑫ イエスのたとえ話と福音宣教

     ルカ福音書15章には、三つのたとえ話が記されており、罪人(つみびと)と一緒に食事をしたイエスを批判した人々に対して語られています。一つ目のたとえ話には、次のようなものがあります。

     「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ15・4-7)

      通常であれば、九十九匹の羊を野原に残して一匹を捜しに行くことはないかもしれませんが、イエスはあえてこのようなたとえ話を用いました。どこかに行ってしまった羊のような私たち一人ひとりのことを、神はたえず心にかけていると伝えようとしたのです。

宮越俊光著 『早わかりキリスト教』(日本実業出版社、2005年)参照。

***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の提供。

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「知ってるつもりキリスト教」⑪ イエスはたとえ話で何を伝えようとしたのか

   イエスが人々に福音のメッセージを語る時、「たとえ話」を用いることがよくありました。当時の日常生活の中から親しみやすい素材を借りてたとえ話を作り、神の愛や神の国について語りました。イエスは、神が私たちから遠くかけ離れた存在ではなく、ごく身近なところにいる方として実感できることを伝えようとしました。また、神の行うわざは私たちの理解をはるかに超えたものであることを伝えようとしたのです。

    イエス神の国について述べる時、「神の国は何に似ているか」や「神の国を何にたとえようか」などと語っています。ルカ13・20には「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って3サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」とあります。ここで用いられているパン種とはイースト菌のことで、これによって粉が発酵します。このたとえを通して、神の国とは私たちの目から見れば小さなものかもしれないが、そこには何倍も大きく成長する力があることを伝えようとしたのです。

宮越俊光著 『早わかりキリスト教』(日本実業出版社、2005年)参照。

***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の提供。

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「知ってるつもりキリスト教」⑩ 奇跡の背景にある神の愛

   福音書に記されたイエスの奇跡は事実なのでしょうか。この疑問に簡単には答えられませんが、おそらく物語の土台となった何らかの出来事があったのは間違いないでしょう。ただし、すべてが福音書に記されたとおりであったかどうかを知ることはできません。イエスが奇跡を通して本当に伝えたかったことは、神の到来であり、また神の愛が広まっているということでした。武力や権力で世界を支配するのではなく、愛といつくしみによって世界に愛を広める方が神である、ということを伝えようとしました。そしてこの神の愛を信じ、受け入れるかどうかが、奇跡の物語を通して問いかけられているのです。

   イエスは、自分を信じさせようとするために奇跡を行ったわけではありません。私たちは目先の出来事だけに心を奪われてしまい、いつの間にか奇跡だけを信じることがあります。

   イエスはこのような人間の心をよく知っていたようで、病気がいやされた人々には「自分のことを言いふらさないように」と注意をしています(マタイ12・16)。イエスの奇跡は、何よりもまず信仰の目によってとらえられることなのです。

 宮越俊光著 『早わかりキリスト教』(日本実業出版社、2005年)参照

***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の提供。

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「知ってるつもりキリスト教」⑨ イエスの奇跡をどのように理解するのか?

   奇跡に関する物語は福音書にたびたび登場しますが、自然科学が発達した現代人の立場からすると、「そのようなことができるものか」と首をかしげたくなるような出来事が記されています。なぜイエスはこのような不思議なわざを行ったのでしょうか。

    福音書に記された奇跡物語を読む時に留意すべきことは、不思議なわざの真偽を追求することよりも、その奇跡が行われた背景やなぜその奇跡が行われたのか、そしてその奇跡を通して何を伝えようとしているのかに目を向けることです。

    福音書は、イエスの細かな一つ一つの動作や行動を描写しようとした記録ではありません。福音書は信仰の書であり、それを記した人々の信仰が土台にあることを忘れてはなりません。また、他の書物と同様に福音書の記述には、書かれた時代の状況やものの見方やとらえ方が反映されています。21世紀に生きる私たちの立場からだけで理解しようとすると、理解しがたいことが記されているということも踏まえておかなければならないのです。

 宮越俊光著 『早わかりキリスト教』(日本実業出版社、2005年)参照

***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の提供

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「知ってるつもりキリスト教」⑧ イエスによる神の国の実現

         イエスが朗読したイザヤの預言の冒頭に、「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである」(ルカ4・18)という文があり、ここにイエスの使命が要約されています。油を注がれてメシア(キリスト)となった者が、良い知らせである福音を貧しい人に告げ知らせるという使命は、イエスが生涯をかけて行ったことです。貧しい人や病人、そして社会の片隅に追いやられている人などの苦しむすべての人にイエスはすすんで歩み寄り、神の愛を伝えました。言葉だけではなく、自らの行いを通して命をかけて伝えたのです。

         イエスが「聖書の言葉が実現した」と言った時、神の愛が訪れていることをすべての人に伝えるために自分が遣わされていることをはっきりと自覚していたのです。

 宮越俊光著 『早わかりキリスト教』(日本実業出版社、2005年)参照

***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の提供

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