捕らえられる

書簡と福音朗読は  Laudate | 教会カレンダー

  福音書の3節にある「姦通の現場で捕らえられた」と、書簡の12節の「自分がキリスト・イエスに捕らえられている」という表現は、どちらも受身の形で書かれています。「捕らえられる」は同じ動詞ですが、状況はまったく異なっています。書簡によると、パウロはキリストに捕らえられています。それは、愛の絆を持ってその愛で相手を包み込むというイメージなのです。その愛から信頼が生まれ、相手に自分の人生と存在を託し、生かされているという意味が「捕らえられる」の中に含まれているのです。

   一方、福音書のエピソードでの用法は違います。「捕らえられた女性」は人々の真ん中に立たされていますが、これは舞台ではなく裁判の被告人席なのです。女性は皆の前で発表するどころか、黙って判決が下され刑が執行される時を待つしかないのです。

   私たちの「捕らえられる」はどちらでしょうか。過ちのせいで、罰則への恐れに捕らえられているのでしょうか。それとも、イエス様の憐れみ深いまなざしに捕らえられているのでしょうか。皆さんは何に捕らえられているのか考えてみてください。

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