「福音書を読み、イエスに親しむ」③ 神のみことばを聞くことによって変えられること

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 エスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4.16-21)

  神のことばは、いつかそのうち生活に適用するというようなものではなく、わたしたちが聴いている今ここで、その言葉を通し、その言葉を聴きつつあるとき、いやしをもたらします。どのぐらい役に立つかにもっぱら価値を置く社会にあって、これは最初、まったく耳になじまないかもしれません。しかし、多くの人はすでにそれと意識しなくとも、語られる言葉にいやす力と破壊する力があることを知っています。誰かがわたしに「愛しています」、あるいは「憎んでいます」といったら、それは単に情報を得たのではありません。わたしのうちで、何かの働きをします。血流を促し、心臓の鼓動や呼吸を速めます。わたしの感情や思考に違いが生まれます。新しいあり方にわたしを引き上げ、自分についての別な知識をもたらします。このように、言葉には、わたしをいやしもすれば、破壊する力もあります。        「燃える心で」H. ナウエン

写真は高木淳司さんの提供で、「オリーブ山」アルバムから

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