イエスの心に触れる ⑪ 「悲しむ人々」

悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。(マタイ5・4)

 聖書では「悲しむ」ことは人の死を悲しむことを意味します。そして広い意味で苦悩、心痛、悲嘆までの心情を表しています。悲しむ人は不幸な出来事を味わっている人であり、それは一人の次元から国民の次元まで、また社会的、宗教的な次元まで言及されています。なぜ、悲しさは「幸い」だと宣言されていますか。その宣言は、出来事の中で神の不思議な働きと、人間の存在、そのもろさを憐みのまなざしで見つめることから来るからです。それによって、悲しむ人は幸いであることがわかります。それは、悲しんでいるからではなく、置かれている悲しい状況は神によって変えられるという出来事を読み解いているからです。「慰められる」聖書では受け身で使われる動詞は神が主語であることを指しています。悲しむ人は将来に慰められるという時間的な見方ではなく、神によって慰められるという、現状が逆転される行為が主張されています。   

拙著「日々の暮らしの中で」。

写真は高木淳司さんの提供で「オリーブ山」アルバム

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