イエスに出会った人々 ② ニコデモ (ヨハネ福音3章1−15節)

お手持ちの聖書で該当箇所を読んでいただくか、

http://www.bible.or.jp/read/vers_search.html を検索してください。

    ニコデモという人物は、ユダヤ人のエリート集団の中で相当の地位にあり、神の道を真面目に問い続けていた人でした。ニコデモは、イエスのうわさを聞いて一度会ってみたいと考えましたが、ユダヤ教の権威者は、イエスのことを異端者として白い目で見ていました。しかし、ニコデモは隠れたイエスの弟子と言っても過言ではないのです。

    ニコデモもイエスも師ですが、二人の問答の仕方は異なっています。ニコデモは、短く懐疑的な応答であるのに対し、イエスの問答は意味深いことばで展開されます。

    周囲の反応や批判などを恐れ、日々の生活の中で自分の生きる意味を問い続け、「ある夜」のニコデモのように、密かにイエスに惹かれている多くの人がいるのではないでしょうか。自分の体験も含めて、イエスが話すことばの意味が分からないけれども、イエスに話したい気持ちがあるように思われます。難しく複雑な対人関係の中でも、イエスの「新たに生まれる」という呼びかけに耳を傾けましょう。神の風に吹かれて、その命の香りを味わいたいものです。

***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の撮影です。

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イエスに出会った人々① アンデレ  (ヨハネ1章35―43節)

お手持ちの聖書で該当箇所を読んでいただくか、

http://www.bible.or.jp/read/vers_search.html を検索してください。

   歩いているイエスを見て、ヨハネが「見よ、神の子羊だ」と言いました。それを聞いたヨハネの弟子は、イエスに従っていき、イエスのところに泊まりました。弟子の一人のアンデレは、ペトロを連れてイエスと出合ったのです。

    この福音箇所に登場する「泊まる」という動詞を通して、信仰の歩みを見ることができます。「午後4時ごろ」は、当時の時間の計り方で「日没がせまり次の日が始まる」という意味です。弟子たちにとっては新しい出発を意味し、イエスのもとにとどまり始めることなのです。

    キリスト者になる基本的なことは、まずイエスとともに「泊まる」、つまりイエスと交わり、人生を共有することです。また、本当のイエスとの出会いは、閉鎖的な関係ではなく、出会いから分かち合い、そして共有へと発展していきます。この歩みは、信仰の歩みです。イエスの弟子というのは、生まれついたものではなく、成長とともにイエスのもとに泊まり、生涯泊まり続けることなのです。    

   ***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の撮影です。 

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新年のご挨拶

FBを通してつながっている皆さまへ

 あけましておめでとうございます。昨年も愛読していただき、心から感謝いたします。

次回より、イエスに出会った人々を中心に、彼らの性格や登場場面、イエスに対する反応などを紹介していきたいと考えています。おそらく、彼らのイエスとの関わり方を通して、共感など何か得るものがあるのではないかと期待しています。

 今年もよろしくお願いします。

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親子関係  聖家族の祝日に当たり

  「子どもとは、いちばん大切な客人だ。子どもたちは家の一員となり、特別に面倒をみなければならず、しばらくのあいだ家に留まりから、自分自身の道を歩むために去っていく。親が息子や娘のすることすべてに責任があると思い、子どもに対してある親の罪悪感を感じていることが多いが、子どもたちが客だという意識を持てばそれが解放に繋がる。

  親であることの難しさは、子どもが育ち、身心と共にひとり立ちできる自由を自分のものに出来るように助力することにある。親にとっての誘惑はこどもに執着し、自分自身が到達できなかった目標を押しつけ、直接間接にどれほど自分に恩があるかをほのめかすことだ。成長するまでの何年もの間愛情を注ぎ、手塩にかけたこどもがさっていくのを目のあたりするのは本当に厳しいことだ。 

  しかしかれらにもまた、親が知らず、押しづけることも出来ない自分自身の道筋があって、一時的に家にとどまっている客なのだと自分に言い聞かせれば、おそらく穏やかに子どもの前途を祝福して立ち去らせることが出来る。」

H。ナウェン、「差し伸べられる手、真の祈りへの三つの段階」、女子パウロ会(pp.102~106)。

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クリスマス 2017年

キリストのご降誕おめでとうございます。

 「わたしが来たのは、あなた方が命を受けるため、

しかも豊かに受けるためである。」ヨハネ福音10章10節

 キリストの誕生は、人生に希望を、心に光をもたらす。

信仰することは旅立つときのみではなく、生涯を生き抜く支えとなる。

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人間になる

   古代ギリシアの神託所の入り口に「汝自身を知れ」と書き記された命令がありました。昔も今も人間となるための重大な条件です。何が私たちを動かしているのかをしっかりと見極めることで、言い換えれば自己認識のことです。「あなた自身を愛しなさい」ということは自己陶酔ではなく、自分自身に同意するようにという意味です。わたしは自分自身を愛することによって、わたしが存在するままの姿に作られた神を愛します。

    自分自身をまじめに考える人は、偉そうに振る舞う人のように自分を大きく見せるか、もしくは自分自身を軽視し自分を実際よりも小さく見せます。あなた自身を愛するということは、あるがままの自分自身を愛するということを意味します。あなたは、神があなたに思い描いたようなあなたになることができ、神があなたを召されているものにすることも出来るのです。

     レオ1世(ローマ教皇、在位:紀元440年- 461年)はあるクリスマス説教において次のように表現しました「キリスト者よ、あなたの尊厳を知ってください!あなたは神の本質の恩恵にあずかっています」

 

グリューン、「クリスマスの黙想―新しい始まりを祝う」、キリスト新聞社、85~86 参照。

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神に愛されている子ども

     私たちの短い生涯の間、その行動の大部分を方向づけるのは、「自分は何者か」という問いでしょう。日々の小さいな決断の中で、その問いをきわめて具体的にいきていると言えます。その問いに対して三つの答え方をしています。口で言わなくても、そう生きています。その答えとは「自分とは、自分の行ったことだ」「自分とは、他人からどう見られているかだ」「自分とは、自分の所有しているものだ」という答えです。言い換えれば「自分とは成功のこと、人気のこと、権力のことだ」となります。

     成功、人の歓心、権力に左右される人生はもろい、と悟ることはとても大切です。なぜかというとこの三つはいずれも、自分でコントロールすることの困難な、外的要因だからです。成功や人気や権力に頼るなら、私たちは自分をこの世に売り渡していることになります。

    イエスは、成功、人の歓心、権力に基づいた自己は偽の自己、幻想だと伝えるために、この世に来てくださいました。大声ではっきりとイエスはこう語られました。「この世が与えるあなたの姿は本物ではありません。あなたの真の姿は、あなたが神の子どもだということにあります」

 H.M. ナーウエン、「いま、ここに生きる、生活の中の霊性」、あめんどう、202-3.

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