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わたしたちと双子のトマス

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー

  

 トマスだけは、復活したイエスが来たとき、弟子たちと一緒にいませんでした。トマスは、

最後までイエスに従うという覚悟を果たせなかった自分に失望し、他の弟子たちにも失望し

ていました。「主を見た」という弟子たちからの知らせに対して、トマスは繰り返し傷跡の確

認を求めます。トマスにとって、弟子たちが見た主と十字架のイエスを同一視するために、傷

跡というつながりがなければ信じることができなかったのです。

 

 トマスは「ディディモ」と呼ばれていました。「ディディモ」は、「双子」という意味です。トマスは他の弟子たちに対して、頑固で閉鎖的な姿を見せていましたが、復活したイエスに出会い、その束縛から解放されて「わが主、わが神」と信仰告白を叫び出しました。

 

わたしたちにとって、トマスは「双子」ではありませんか。わたしたちの中には、「恐れ」や「疑い」という信仰と相反する気持ちが同時に存在しているからです。「恐れ」、すなわち鍵のかかったドアと「不信仰」、つまりトマスがあるからこそ、復活のイエスとの出会いが豊かないのちを育んでくれます。

 
F.レナト、「聖週間を生きる。毎日の黙想: 受難と復活節の人物とともに」、女子パウロ会、101-2。

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復活の曙光 

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー (ヨハネ20章1~10節)

   マグダラのマリアが墓に行った時、あるものを発見しました。何を発見したのでしょうか。墓に入るほのかな希望すら与えなかった重い石が、取りのけられているのを見たのです。そして、イエス様の遺体が見当たらないことによって、彼女の心の中に何かが生まれています。かすかな光が見えるのです。

   マリアに告げられたペトロとヨハネも墓に走っていき、同じ空の墓に直面しています。遺体が盗まれたのでしょうか。それとも、イエス様の三回もの受難と死と復活の予告がその通りになったのでしょうか。ここでも、かすかな光が見えます。

   マグダラのマリアとペトロ、そしてヨハネは、それぞれがイエス様に対して抱いていた期待と失望が崩れ始めたのを感じたのです。週の初めの日、すなわち復活の日に、まだ暗いうちにかすかな光である曙光が見えるのです。

    私たちも、イエス様をはじめ、周りの人たちに対する勝手な思い込みや他人に対するあきらめの気持ちという重い石を取りのけましょう。復活の日、「まだ暗いうちに」太陽の曙光がその暗を貫いたように、私たちも日々出会う人、共に生活している人、相容れない人に対してぬくもりのまなざしで見ることができますように。

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受難の主日に当たって 

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー

   受難物語の流れに沿って読み進めると、いくつかのコントラストが浮かんできます。例えば入城の場面で最も注目すべきことは、イエスが乗った動物です。それはロバです。ロバは荷物を運ぶ家畜で、労働を象徴しますが、同時に謙虚を表す動物もあります。一方、皇帝や王たちは「馬」や「馬車」に乗ります。馬は栄光や権威を表す動物だからです。

   もう一つの対照的な場面は、ピラトが群衆の前で手を洗うことに対して、イエス様は弟子たちの足を洗う場面があります。ピラトは、イエス様に対して一切の責任を取らずに、イエス様を群衆に渡します。一方、イエス様は弟子たちの足を洗うことによって、待ち受けている受難に自ら深く関わって命をかけていきます。

   受難物語に登場する人物は、ピラトと彼の妻、群衆、祭司長、律法学者たちと長老たち、百人隊長、またイエス様を裏切ったユダ、イエス様のことを否定したペトロ、イエス様に忠実に従ったマグダラのマリア、イエスの遺体を納めたアリマタヤのヨセフなど大勢います。これらの登場人物と自分を置き換えて、受難物語のイエス様に近づいてみましょう。

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あなたも出てきなさい

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー  (ヨハネ11章1~45節)

   イエス様は墓に納められたラザロに、「ラザロ、出てきなさい」と大声で呼びかけています。ラザロとは異なり、私たちは命が与えられ、墓の中ではなく社会の中で暮らしていますが、このイエス様のことばは私たちにも向けられていると考えられます。

    私たちは人間関係において、閉塞感溢れる状態にいます。自己中心的考えや過去の嫉妬、怒り、憎しみなどが足かせとなり、人生の道を歩むことが出来ず、死んだ状態にいるのではないでしょうか。そのような過去の状態は、いのちを窒息させるものです。また、知らず知らずのうちに、他者に対する心遣いに鈍感になってしまっているかもしれません。

    イエス様が言った「ほどいてやって行かせなさい」とは、手と足を指していますが、心の奥底にある嫉妬や憎みなどを解放させるという解釈も可能なのではないでしょうか。私たちを束縛している感情を解放させると、周囲の物事に関心を持つようになり、周囲の人々を恐れることなく、つながりを持っていきます。つまり、出ていくことから出会いは芽生えるのです。

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新天地へ

今日、午後から泉佐野の本部を出発して、熊本県にある玉名教会(写真)へ行きます。4月2日に主任司祭として着任する予定で、近隣の荒尾教会も兼任します。同じザベリオ会の84才の大先輩の協力と知恵をいただきながら、新天地での人生の本に新たな章を書き始めます。みなさん、これからも応援宜しくお願いします。

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見ようとしないこと

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー  ヨハネ9章 1-41節

  「今日の福音書に出てくる目の見えない人も、まさにそうでした。通りすがりに聞こえよがしに口にされた「この人が生まれつき目が見えないのは誰が罪を犯したからですか?」という質問や、のちにファリサイ派の人々との問答の中で投げつけられた「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」という心無い言葉が、彼が長い間周囲からどのように見られどのように扱われていたのかを端的に伝えてくれます。その人の生まれつきの障害が癒された後でさえ、その周囲にあったのは、喜びや祝いの雰囲気ではなく、とがめと恐れの渦でした。彼の両親ですら、我が子の長年の苦しみからの解放を喜ぶ前に、時の権力者からの不興を恐れたのです。

    見ようとしない人、見たいと望まない人には、こんなに明らかな神の愛の奇跡が見えず、神の喜びのメッセージが聞こえないのだと、思い知らされます。今も世界中の思いがけないところで日々刻々行われている神の愛の業をしっかり見る恵みと、いかなる困難も神の業が行われるチャンスであると信じてその愛の業に協力していく恵みを、今日、改めて願いたいと思います。苦しい状況のただ中にある、あの人この人を思い浮かべながら。」

              黙想のヒントより(http://seseragi-sc.jp/xe/346495

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様々な解釈

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー  (ヨハネ4章5-42節)

   本日の福音箇所にある「五人の夫」(18節)の表現には、サマリアの女が象徴している歴史的な背景を読みとることができます。紀元前8世紀にアッシリアによって北王国が滅ぼされた時に、隣国の人々はサマリア地方に神々の偶像を持ち込みました。そして、その地方に残ったイスラエル人は隣国の民と交わり、偶像を礼拝するようになり、イスラエルの宗教は正統性を失っていきました。また、紀元前4世紀には、サマリア人エルサレムの神殿に対抗して別の山に神殿を建て、イエス様の時代にもその山で礼拝を行っています(20節参照。

   福音書に登場する女のかつての五人の夫は、異邦人の五つの神々を象徴しています(列王記下17章29-31節)。また、「今連れ添っているのは夫ではない」という表現は、サマリア人が正しい神への礼拝を行っていないことを象徴しています。過去の「五人の夫」と現在の「連れ添っている人」(18節参照)を合わせると「六」になります。「六」は、聖書において「未完成」という意味です。一方、この場面では、サマリアの女はイエス様に出会っています。この出会いは、キリストと呼ばれるメシアの到来を表しています(25-26節参照)。イエス様は「七人目」の夫となります。「七」という記号は「完成」という意味なのです。

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