聖書に登場するシンボル 「捧げ物・血・いけにえ」

    どの文化圏に属する宗教でも、神や霊などに「捧げ物」をする習慣があります。神などに何かを差し上げる代わりに、特別のお恵みやおゆるし、ご加護などを乞うことでした。日本のような農耕文化では米、酒、果実でしたし、家畜牧畜の文化では動物でした。特に動物の血は命そのものであったため、一番ふさわしいお返しでした。

     聖書の背景は牧畜を生業とする世界で、動物を殺すことがある意味で、日常の出来事でした。聖書の世界の人々にとって家畜や羊などの肉は、欠くことのできない大切な食料なのです。その上に、「血は命」という考えがありました。血を流すと生き物が死にますので、血こそ命の源だと思っていました。さらに、命は神からいただいた恵みなので、血は特別に神に属するものでした。

     人間は常に罪を犯しているので、それだけ神に対する負債、恩義がたまってきます。昔の人はいけにえ、つまり動物の血を流すことによって、その負債を返しました。それが「あがない」というものです。旧約時代では特に小羊のいけにえがそうでしたが、新約時代では、神の小羊であるキリストご自身が血を流すことによって、人間の神に対するすべての負債をあがなってくださったのです。

 マンフレート(著)/池田 紘一(訳)『聖書象徴辞典』人文書院 参照。

***写真は高木淳さんの提供。アルバムのリンク先 

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聖書に登場するシンボル 「光」

      創世記1・3には、「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」と書かれています。聖書では光は神の一つの特徴で、その光は神の栄光とも言われています。もっと具体的に言えば、光は幸せ、愛、平安、秩序などすべての積極的で肯定的な要素を含みます。その反対は、暗闇、悪、すべての否定的なものです。

      12月25日は、もとはミトラ教の太陽の誕生を祝う祭りの日でした。それをキリスト教はキリストの誕生に結びつけ、世の光であるキリストの誕生を祝う日になりました。ヨハネ8・12に「イエスは言われた。『わたしは世の光りである。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ』」。とあります。この世の暗闇に再び光をもたらすこと、それが救いの意味です。同じようにキリスト信者にも、世の光であるようにとマタイ5・14‐15で言われています。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。」

    キリスト信者が世の光であることは、復活徹夜祭で美しく演じられます。世の光のキリストを象徴する大きな復活のローソクから各自の手に持っている小さなローソクに、順々に火がともされ渡されています。そして真っ暗な聖堂が、次第に明るくなっていきます。クリスマスのキャンドルサービスも、同じ意味を持っているのです。

 マンフレート(著)/池田 紘一(訳)『聖書象徴辞典』人文書院 参照。

***写真は有明海の夕陽で、高木淳さんの提供。アルバムのリンク先 

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聖書に登場するシンボル 「ぶどう酒と杯」

    ぶどう酒は生きる喜びの一象徴であり、人間と神はぶどう酒によって喜びを与えられ、元気づけられます。神自ら人の心を喜ばせるぶどう酒を人間に与えてくださると詩編104・15にあります。主は渇きを覚えている者に水ばかりではなく、ぶどう酒をも、無償で与えるが(イザヤ55・1参照)これは主が彼らにいのちばかりではなく、喜びをも与えるということである。

    ヨハネ福音書のカナの婚礼(ヨハネ2・3‐10)で行われるしるしである「今まで取って置かれたよいぶどう酒」(10節)は、キリストの到来と宣べ伝えられる福音という喜びのしるしです。ところで共観福音書に出てくる「新しいぶどう酒」という表現は、イエスの新しい教えを、古い革袋を破る新しいぶどう酒に譬えたものです。(マタイ9・17)。

     聖書の中では、杯は「人の運命を表す」たとえになりました。悪い運命の場合は、例えばイザヤ51・17に「目覚めよ、目覚めよ/立ち上がれ、エルサレム。主の手から憤りの杯を飲み/よろめかす大杯を飲み干した都よ。」とあります。逆に、幸運の象徴として、詩編116・13に「救いの杯を上げて主の御名を呼び」とあります。

     最後の晩餐の席上で、「イエスは杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われました『皆、この杯から飲みなさい。 28これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』」(マタイ26・27‐28)とイエスは死の杯を、自分の十字架上のいけにえのしるしとなさいました。

L. マンフレート(著)/ 池田 紘一「訳」『聖書象徴辞典』 人間書院 参照。

***写真は高木淳さんの提供。アルバムのリンク先 

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聖書に登場するシンボル 「パン」

      植物学者によると、麦はパレスチナイスラエル)原産の植物だそうです。当然、イエスの生まれ育った国の主食はパンでした。当時のパンは薄くて丸い形でした。インド料理のレストランで供されるナンというものに似ています。聖書の中で、パンは人間の物質的な要求を表し、主の祈りは「わたしたちの日ごとの糧をお与えください」となっています。

      イエスの時代に家族が一緒に食事をする場合、まずお父さんがパンを取り、祈りを唱えてそれを割き、みんなに配りました。イエスも弟子たちと一緒に、何回も同じことをなさり、最後の食事の時がきました。イエスはパンを取り、それを祝福し、割いてみんなに与え、「これはあなた方のために渡される、わたしの体である」とおっしゃり、これでパンは「イエスの体」になりました。初代教会では、ミサを「パンを割くこと」と名付けました。

      カトリックではミサで使われているホスチア(薄いせんべい)は聖別によって「キリストの体」と変容されて、「聖体の秘跡」と呼ばれています。聖体のパンは物質的食べ物でありながら、霊的な糧でもあるのです。この聖体のパンは、キリスト信者の主食になりました。ヨハネ福音書6・57にイエスは「わたしを食べる者もわたしによって生きる」とおっしゃったように、キリスト者も少しずつイエスの生き方を自分のものにするのである。

 M.クリスチャン 『聖書のシンボル50』オリエンス宗教研究所 参照。
***写真は高木淳さんの提供。アルバムのリンク先 

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聖書に登場するシンボル『動物』 小羊

     家畜の中で一番人間に頼る動物は羊だそうです。聖書では、羊の従順と羊飼いへの信頼は、人間の神に対する信頼の心のシンボルとして羊はしばしば登場します。例えばイザヤ40・11に「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」とあります。小羊は毎年、過越祭で出エジプトを記念していけにえの犠牲にされていました。

      キリスト教では、小羊はキリストを暗示します。ヨハネ福音書1・29には洗礼者ヨハネは、イエスが自分の方に来られるのを見て、世の罪を取り除く神の小羊だと、二人の弟子に示しました。そして、キリストは十字架の上で血を流したことで過越祭の新しい小羊として、復活祭のいけにえとされました。ミサの聖体拝領の前に司祭がパンを裂いた後、「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い」と宣言します。私たちのために、ほふられるしるしとしてキリストの体が砕かれることを意味します。

     パウロの「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られた」(Iコリント5・7)という譬えから欧米の国々では、復活祭の食事にはお肉料理として「ラム」または小羊の形でパン菓子として食卓に登場します。

M.クリスチャン 『聖書のシンボル50』オリエンス宗教研究所 参照。
***写真は高木淳さんの提供。アルバムのリンク先 
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聖書に登場するシンボル『動物』 ロバ

      ロバは大変役に立つ動物で、車は行けないところもロバは行けますし、非常に重い荷物でも運ぶことができます。ロバは柔和で、蹴られても抵抗しませんし、餌はなんでも食べますし、背は低く、目立たない動物です。全く反対なのが馬です。馬は姿美しく背は高く、プイドがあって、生気に満ちています。当然、馬は王様、貴族、兵士や金持ちの乗り物となりました。馬は癇癪(かんしゃく)持ちが多いので、乗るときに危険な目に遭うともあります。

       そういうことを考えると、イエスエルサレム入城の時に、子ロバに乗って来られた理由がうなずけます(マルコ11・1‐6)。イエスはロバに乗ることによってわたしたちに深い意味を教えてくださいました。イエスは救い主であり、神の子でありながら、仕えることを教えられたのです。プライドの高い馬に乗らないで、わざわざ謙遜で柔和なロバを選びました。イエスはロバが荷物を運ぶように人間の弱さやもろさ、そして醜さなどという罪のすべてを背負っていくのです。

M.クリスチャン 『聖書のシンボル50』オリエンス宗教研究所 参照。
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聖書に登場するシンボル『動物』 魚

   すでに旧約聖書において人間は海にすむ魚にたとえられています(コヘレト9.12、ハバクク1・14)。新約聖書でも、魚は人間を表します。イエスは弟子たちに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた(マタイ4・19)。また、五つのパンと二匹の魚が増大して五千人の人を食べさせたエピソード(マルコ6・35‐44)は聖体の先駆的な手本です。復活したイエスはティベリアス湖畔で(ヨハネ21・3‐13)夜通し漁をしたため、疲れ果てた弟子たちに大きな漁を下さり、網には153匹の大きな魚がかかっています。この数を解釈するにあたって、それは当時の博物学者たちに知られていた魚の種類の数であると考えました。それが教会という網にかかるすべての人間を比喩的に表しているというわけです。

    魚を表すギリシャ語(新約聖書は書かれた言語)の「イクテュス」(ἰχθύς)の文字の配列によって新たに注目を浴びました。ギリシャ語で「イエス」()、「キリスト」(χ)、「神の」(θ)、「子」(ύ)、「救世主」(ς)という言葉の頭文字をつなぎ合わせると「ἰχθύςとなり、そこから「イエス・キリスト、神の子、救世主」と考えられました。迫害の時代には、キリスト教徒たちは魚のしるしを通して互いに信仰の告白を認識し合ったのです。

 M.クリスチャン 『聖書のシンボル50』オリエンス宗教研究所 参照。
***写真は高木淳さんの提供。アルバムのリンク先 

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