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「いつもあなたと共にいる」

福音朗読は  Laudate | 教会カレンダー (マタイ28章16~20節)

   私たちは、宗教は死後の世界で受け入れられるための役割のみを果たすと考えがちです。従って、宗教のことを考えることなく日々を過ごしている人は少なくありません。しかし、思いがけない出来事が起こると、慌てて教会や神社、そしてお寺などに飛び込んでいくのです。

    イエス様は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と宣言されました。これは死後の約束ではなく、「いま」「ここ」で実現し始まるのです。「いつも」という表現は、ある瞬間だけではなく、この地上に暮らしている間、共に存在することを意味します。そして、「世の終わりまで」ということばは、信仰し始める時から死を迎える時まで、絶え間なくつながっているというキリスト教の宗教観を表しています。

   イエス様は「いま」「ここ」で私たちに心を配られ、共にいらっしゃり、友となって人生の歩みに付き添ってくださるのです。

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世界広報の日にあたり

   「他者に対して先入観を抱かずに、出会いの文化を育むことにより、確かな信頼をもって現実に目を向けられるよう助ける、建設的なコミュニケーションをわたしは皆さんに強く勧めます。

     したがってわたしは、建設的で開かれたコミュニケーション手段の追求に貢献したいと思います。それは悪に主役を与えるのではなく、情報を受けた人々が積極的で責任ある行動を起こせるよう促しながら、実現可能な解決策を示すために尽くすコミュニケーション手段です。わたしは「良い知らせ」の論理に基づく情報を現代の人々に伝えるよう皆さんに求めます。

   人生は出来事が整然と連ねられた単なる年代記ではなく、語られることを待ち望む一つの歴史です。それを語る際には、もっとも重要なものを選んで集めることのできる、解釈の鍵となるものを選ぶ必要があります。現実そのものの意味はただ一つではありません。すべてのものが、どのように物事を見るかによって、すなわち物事を見る際に用いる「レンズ」によって変わります。そのレンズを変えれば、現実も違って見えます。」

2017年、第51回「世界広報の日」教皇メッセージ、

 全文はhttps://www.cbcj.catholic.jp/2017/04/11/13705/

 

みなさんは現実を読み解くために、どんなレンズを使っていますか。

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道であるキリスト

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー  (ヨハネ 14章1-12節)

   イエス様は「私は道である」と宣言されました。そして、使徒言行録によると、初代教会の人たちは「道に従う者」という名称を与えられ、「弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである」と書かれています(使11章26節)。キリスト者は、キリストに従う者であり、キリストの道を歩んでいくという意味です。    

  「道」というイメージから、動きと過程の進行を思い浮かべることができます。歩みを進める上で、山もあり谷もあり、波風も立ち、また出発点と目的地の間にある空間と距離などもあるでしょう。キリスト教を信仰することは、理性をもってその教義に同意するより、まずその精神に心を打たれて、実践するように促されて、体を動かすことが大切です。つまり、信仰するにあたり、心も体も積極的に関わるようにすることなのです。 

  イエス様が「心を尽くし、精神をつくし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい」と、この宣言を通して聖書の教えと精神をまとまめられたのです。

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豊かな命と救い 

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー  ヨハネ10章1~10節)

 

  「救い」という表現は、狭義では死にそうな状態から救助されるという意味ですが、広義では命が開花すること、しかも豊かになるという肯定的な見方があります。この視点から見ると、救いは豊かな命を意味し、この地上にいる間の贈り物であり、信仰生活の支えと捉えることができます。「私が来たのは、羊が命をうけるため、しかも、豊かにうけるためである」(10節)とあるように、命をさらに豊かに与えるというイエスさまのことばに現れています。

 

  ヨハネ福音書において、「命を得る」という表現は信じることとつながっています。最初は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(316節)と書かれており、最後には「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(2031節)とあります。従って、神様がわたしたちのために望まれる幸せと豊かな命を信じ、味わい、実感する時、救いの体験と言えるのです。 

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悲しみの天使 

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー

   わたしたちは、悲しみといえば、すぐになくなった人に関わる悲しみを思い浮かべます。それは、おそらく、人生の中で最も深刻な悲しみでしょう。悲しむことにおいて、わたしたちは意識的に、人の死はわたしたちの人生にももたらした喪失を向き合っていきます。わたしたちはその人と自分の関係をもう一度じっくり見つめ直します。わたしたちはその人と経験したすべてのこと、その人がわたしたちにとってどういう存在であったかということ、その人がわたしたちに与えてくれたことを思い起こします。何度も何度も、人間関係が壊れていくのを、人生が崩れていき、しゃがみこんでしまうことを経験しています。それで失望し、幻滅してしまいます。  

   悲しみの天使はあなたを悲しみから守れることができません。しかし、あなたは一人でその痛みを担っていくわけではありません。悲しみの天使があなたと一緒にいて、痛みと新しいいのちの力へと変えてくれるでしょう。おそらく悲しみの天使はあなたにある人を遣わすでしょう。その人は、あなたの悲しみの中であなたのそばにいて、理解し、あなたと共に感じ、そして何があなたの中で新しい可能性として始まろうとしているのかに気づかせてくれるでしょう。

 

            A.・グリユーン、「50の天使。1年の歩みのために」、

             キリスト新聞社、2007、109-112ページからの抜粋。

 

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わたしたちと双子のトマス

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー

  

 トマスだけは、復活したイエスが来たとき、弟子たちと一緒にいませんでした。トマスは、

最後までイエスに従うという覚悟を果たせなかった自分に失望し、他の弟子たちにも失望し

ていました。「主を見た」という弟子たちからの知らせに対して、トマスは繰り返し傷跡の確

認を求めます。トマスにとって、弟子たちが見た主と十字架のイエスを同一視するために、傷

跡というつながりがなければ信じることができなかったのです。

 

 トマスは「ディディモ」と呼ばれていました。「ディディモ」は、「双子」という意味です。トマスは他の弟子たちに対して、頑固で閉鎖的な姿を見せていましたが、復活したイエスに出会い、その束縛から解放されて「わが主、わが神」と信仰告白を叫び出しました。

 

わたしたちにとって、トマスは「双子」ではありませんか。わたしたちの中には、「恐れ」や「疑い」という信仰と相反する気持ちが同時に存在しているからです。「恐れ」、すなわち鍵のかかったドアと「不信仰」、つまりトマスがあるからこそ、復活のイエスとの出会いが豊かないのちを育んでくれます。

 
F.レナト、「聖週間を生きる。毎日の黙想: 受難と復活節の人物とともに」、女子パウロ会、101-2。

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復活の曙光 

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー (ヨハネ20章1~10節)

   マグダラのマリアが墓に行った時、あるものを発見しました。何を発見したのでしょうか。墓に入るほのかな希望すら与えなかった重い石が、取りのけられているのを見たのです。そして、イエス様の遺体が見当たらないことによって、彼女の心の中に何かが生まれています。かすかな光が見えるのです。

   マリアに告げられたペトロとヨハネも墓に走っていき、同じ空の墓に直面しています。遺体が盗まれたのでしょうか。それとも、イエス様の三回もの受難と死と復活の予告がその通りになったのでしょうか。ここでも、かすかな光が見えます。

   マグダラのマリアとペトロ、そしてヨハネは、それぞれがイエス様に対して抱いていた期待と失望が崩れ始めたのを感じたのです。週の初めの日、すなわち復活の日に、まだ暗いうちにかすかな光である曙光が見えるのです。

    私たちも、イエス様をはじめ、周りの人たちに対する勝手な思い込みや他人に対するあきらめの気持ちという重い石を取りのけましょう。復活の日、「まだ暗いうちに」太陽の曙光がその暗を貫いたように、私たちも日々出会う人、共に生活している人、相容れない人に対してぬくもりのまなざしで見ることができますように。

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