イエスに出会った人々⑳ エマオの二人の弟子、before & after 2(ルカ24章13~35節)

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   エマオへの道を歩んでいると、不思議な人が現れて一緒に歩き出します。食事の時、この不思議な人は賛美の祈りを唱えてパンを割いて配りました。そして、二人はその人がイエスだと気付いたのです。どんなに感激し、嬉しかったことでしょう。 

   イエスによる一連の行いには、最大の特徴があります。イエスは巧みに話したり、うまく説明したわけではありません。受け入れることが到底できないと思えた出来事を前にして苦りきっていた心を、自分の姿を現わすことで和ませたのです。弟子たちは心を燃やして戻っていきます。これが、復活したイエスに会ったあとの二人の弟子の変容です。 

***写真とことばはロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の提供です。

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イエスに出会った人々⑲ エマオの二人の弟子、before & after 1(ルカ24章13~35節) 

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   2人の弟子がエマオに向けて一緒に歩いていました。暗い顔で視線が下がり、互いに顔を見合わせることなく、ゆっくり歩きながら論じ合っていました。この歩き方から、二人が絶望していることを想像するのは容易いことでしょう。3年前にイエスと出会った

ことで人生観が変わり、イエスの慈しみに感動しました。ところが、慕っていたイエスが逮捕され、苦しみを受け、十字架につけられて死に、そして葬られたことは、弟子たちにとって悲惨な結末でしかありません。

    私たちはこの二人の心情を理解することができ、また同様の体験もしています。喪失は人生の一部だからです。喪失は私たちの心や思いに深く根をおろしています。しかもその経験が相次ぐと、人は幻滅し、悲しみとともに怒りを感じるようになります。

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イエスに出会った人々⑱ パウロ(フィリピ1章21-26節)

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  パウロのキリストへの愛と熱望、そしてフィリピの教会への愛と心構えは、彼にとって心臓の鼓動のようなものであり、命そのものです。死ぬことによってキリストと共になる一方で、生きることによって共同体の信仰を深めさせ、喜びをもたらすことができます。愛は、愛を受ける側が中心です。どれほど相手を愛し、どのように愛しているかが重要です。パウロは「どちらを選ぶべきか」という切迫した状態になるほど、キリストとフィリピの教会への愛で燃え、駆り立てられているのです。

    パウロと同じように、キリストに従う者の使命もそうです。洗礼を受けることによって固有の使命、つまり自分が置かれているところで周りの人々に福音を伝え、証しすることを果たしていきます。

    パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2章20節)と宣言するほど、自分とキリストを同一視したのです。

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イエスに出会った人々⑰ 洗礼者ヨハネ (ルカ7章18~23節)

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     洗礼者ヨハネは「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」と荒れ野で厳しく説きました。しかし牢にいる間、イエスの説く愛とゆるしの福音、つまり神の怒りではなく神の救いの噂を聞きました。そして、イエスのところに人をやって「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と尋ねさせたのです。

      「来るべき方」に対して、様々な期待がありました。ローマ帝国からイスラエルを解放し、王国を再建してくださる栄光の救い主への期待が特に高かったのです。洗礼者ヨハネの偉大さは、多くの人々の期待とイエスの行いを見分けることでした。彼は自分が持っている「来るべき方」のイメージを疑い、問い直したからです。

      私たちは、暮らしの中で個人的、文化的、また社会的な先入観を持っています。そして、自分が持っている先入観について、他者から問われる時があります。それに対して、先入観を問い直すか、それともさらに固執するかという選択肢があります。その選択肢によって、私たちの思想が広がり、協調性を持つことができるか、それとも狭い考え方のまま排他的になるかのどちらかになるのです。

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イエスに出会った人々⑯ カナンの女性(マタイ15章21~28節)

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   今回の人物は、カナンの女性でありながら、大胆にもイエスに挑戦しました。家父長制社会の時代では、女性は男性の所有物でした。しかも彼女は異邦人でありながら、イエスに願いを求めたのです。彼女は、悪霊にとりつかれた娘の快復のために、社会的なしきたりを破り、前に出てきました。願いを叶えてもらおうとしても、最初は無視され、また願いは拒まれてしまいました。しかし、あきらめずに願い続けたのです。

   この女性の態度から、私たちが人生を歩むためには勇気が必要不可欠であると感じることが出来ます。未知の物事に対して、勇気は必要です。疑問に縛られて、一歩も踏み出すことが出来ず、間違いを恐れて、躊躇してしまう場合が多いのではないでしょうか。人生は冒険であり、挑戦です。そして、人間として更に成長していくという試練なのです。

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イエスに出会った人々⑮  徴税人マタイ (マタイ9章9―13節)

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     当時の納税方法は、現在とは全く違うものでした。ローマ帝国の植民地だったイスラエルの国は、ローマから厳しく税金を取り立てられていました。そのため、マタイのような徴税人は、ユダヤ人から裏切り者と見なされていました。しかも、自分の利益のために税金を通常より多く集める傾向があったため、人々から嫌われ、宗教的に罪人(つみびと)と見なされていたのです。このようなマタイは、イエスから「わたしに従いなさい」と呼びかけられました。イエスのまなざしが自分に向けられた時、どのように感じたのでしょうか。


教皇フランシスコの紋章のモットー(バチカン放送局より抜粋、2013年3月18日)

    「憐れみ、そして選ばれた」は、聖ベーダ・ヴェネラビリス司祭の説教の言葉から取られているのです。この言葉は、教皇フランシスコの霊的生活において特別な意味合いを持つことになりました。1953年の聖マタイの祝日に、17歳だった若いホルヘ・ベルゴリオは、まったく特別な方法で、その人生における神の憐れみの現存を強く体験しました。その時、神の憐れみが自分自身の心の奥底に下ってきたことを強く感じたと、後に告白しています。マタイもこのような特別な体験をしたのでしょう。

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イエスに出会った人々⑭ サマリアの女性(ヨハネ4章6-30 節 )

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   サマリア人は、ユダヤ人と同じ民族でありながら、歴史的にも宗教的にも異母兄弟とみなされていました。福音書に登場する女性は異端者のサマリア人の一人であり、しかも6人の男性と暮らしてきたという道徳的にも道を外れた女性でした。

    井戸で水を汲むことは女性の仕事でした。彼女は、本来なら人に合わない時間帯に、井戸でイエスと出会いました。イエスに「水を飲ませてください」と頼まれた女性は、イエスから「生きた水」の話を聞いた後、今度は彼女自身が「その水をください」とイエスに頼みました。さらに、その女性は日常生活に欠かせない水瓶を置いたまま、イエスのことを知らせるために町へ行ってしまったのです。

    水は命に直結しています。福音書を読み、静かに祈るという機会は、イエスがいる井戸で心と体を休ませる時であり、また空間でもあります。その時、心の渇きがいやされるからです。イエスとの出会いが、日常生活を問うのと同様に、それを照らす機会になるのです。

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