天の国のまなざし

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー (マタイ20章1~16節)

 本日のたとえ話を読んで、主人の態度に対して「一日中働いた人に1デナリオン。一時間しか働かなかった人にも1デナリオン。これはおかしいのでは?」と首をかしげる人も少なくないでしょう。私たちの感覚で考えると、一日中働いた人たちには、少なくとも8デナリオンが支払われるはずです。しかし、「1デナリオン」というのは、当時の日給だったそうです。つまり、主人の行為は不当でも何でもないのです。

   天の国のまなざしで、世の営みを見てみましょう。日雇い労働者にとって、朝早く市場に行き、その日の仕事を得ることが毎日の希望と祈りでした。しかし、8時を過ぎたらその望みもなくなります。仕事を得られなかった人は、今日より明日がよくなりますようにと祈っているのです。ここが大きなポイントです。雇い主は、12時や3時、そして5時からも人を雇います。寛容な心で1デナリオンを与えることによって、雇われた人とその家族を絶望から救うことができます。雇い主は雇用の決まりを守りながら自分の気持ちを1デナリオンに託したのです。これが天の国の判断基準です。

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死ぬ心構え 

   死はしばしば突然やって来ます。交通事故、病気、戦争、災害などなど。健康で力がみなぎっているときには、自分の死について考えることはありません。それにも拘わらず、死は全く思いがけずにやって来ます。どうすれば死に備えることが出来るでしょうか。決着のついていない人間関係上の問題を、一切残さないようにことによってです。要はこういうことです。自分を傷つけた人をゆるしたでしょうか。また、自分が傷つけてしまった人にゆるしを乞うたでしょうか。

   わたしの人生の一部であったすべての人々と心安らかな関係でいるなら、わたしの死は大きな悲しみとなることはあっても、後ろめたさや怒りをもたらすことはないでしょう。どんな時にも死ぬ準備が出来ていると、どんな時にも生きる準備もまた出来ています。 

      H.ナウエン、「今日のパン、明日の糧」、聖公会出版、2003年、291項

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教会・人と建物

福音箇所は Laudate | 教会カレンダー(マタイ18章15~20節)

   通常、皆さんは「教会」と聞けば、「〇〇教会」と書かれた建物を思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、これは本来の意味ではありません。日本語の「教会」とは、ギリシャ語の「έκκλησία(エクレージア)」の翻訳ですが、本来は「呼び集められた者」を意味します。つまり、「エクレージア」とは人々の集会を指す言葉であり、建物と関係はないのです。

    本来の意味に立ち返って考えるなら、キリストの名のもとに人々が集まることで、「教会」が成り立ちます。

    神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。(第1コリントの教会への手紙1章 1節)

    上記の書簡に書かれているように、教会とは、明確に人のことを指していることが分かります。そのため、建物としての「教会堂」や「聖堂」と、信じる人々の集まりである「教会」とを区別することが大切なのです。

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被造物を大切にする世界祈願日

   教皇フランシスコは2015年、回勅「ラウダト・シ」を発表した。去年、「共に暮らす家を大切に」という副題と共に翻訳が出版された。「わたしたちの家、地球を大切に」という『回心』を呼びかける教皇メッセージに、どれだけの人が耳を傾けて実行しているのだろうか。9月第1日曜日は『被造物を大切にする世界祈願日』。「神さま、どうにかしてください」と祈るかもしれない。でも神は「あなたがどうにかしなさい」とわたしたちに言っていると思う。地球は危機に瀕しているのに、そこに住むわたしたちは何も変わらないで、いつまでも「今までのまま」でいるのだろうか。

     大気、海洋、河川、土壌の汚染、生物多様性の喪失、森林破壊、温暖化、砂漠化、山積された廃棄物。人間の活動が他者と全被造物とに与える影響に関する、連帯と正義の観点からの考察。しわ寄せを被る開発途上国と将来世代に対し、担うべき責任とは何かを問う。

   「わたしたちの後に続く人々、また今成長しつつある子供たちのために、わたしたちは一体どのような世界を残していきたいのでしょうか」(「ラウダト・シ」n. 160)

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「イエス・キリスト」

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー  (マタイ16章13~20節)

   日本語で欧米人の名前を書く時、私の本名のレナト・フィリピーニのように、名前と姓の間に「・」が表記されます。しかし、イエス・キリストの場合、「イエス」が名前で、「キリスト」が姓という意味ではありません。「キリスト」はヘブライ語の「メシア」をギリシャ語で表した形であり、本来の意味は「油を注がれた者」なので、キリストは固有名詞ではないのです。

   旧約聖書では、「油を注がれた者」とは王や祭司、そして預言者に対して用いる言葉でした。その後、民を圧政から解放し、救いに導く指導者を表すように変化していったのです。新約聖書の時代、「メシア」という概念は期待に満ちたものであり、政治的・社会的な救い主というイメージが強かったようです。特に、ローマ帝国からイスラエルを解放し、王国を再建してくださる栄光の救い主への期待が高かったのです。

   そして初期のキリスト教徒は、十字架上で処刑されたイエスこそ神の子であり、救い主メシア、すなわち「キリスト」であると確信したのです。それから、イエス・キリストとは「救い主イエス」という意味で、信仰を簡潔に告白する言葉ができたのです。

 下に宇宙支配者であるキリスト(モサイク、ドゥオモ、チェファル、南イタリア

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人生における勇気

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー  (マタイ15章21~29節)

   本日の福音書を読むと、人生は冒険であり、勇気が必要不可欠だと感じられます。登場人物は女性でありながら、イエス様に大胆にも挑戦しているからです。男性社会の時代では、女性は男性の所有物でした。また、彼女は異邦人でありながら、願いを求めているのです。

   未知な物事に対して、勇気は必要なものです。疑問に縛られて、一歩も進むことできず、間違うことを恐れて、慌ててやめてしまう場合は多いのではないでしょうか。そのため、人生は冒険であり、挑戦であると言っても過言ではないのです。

    みなさん、自分自身に当てはまる節目を振り返ってみましょう。ランドセルや小さくなった制服、運転免許証、就職、結婚、そして初めて子どもが生まれたことなど。さらに、還暦や古稀喜寿、傘寿を迎えたことなど。それら人生の節目に、どれほど勇気が要求されたものでしょうか。

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市場の中の静かな場所

聖書朗読は Laudate | 教会カレンダー  (列王記上19913節)

   

   「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩編4610)。これは忙しい生活をするにあたり、覚えておくとよい言葉です。私たちは、静けさを騒がしい世界と対比させて考えるかもしれません。でも、仕事をしていたり、教えていたり、建設作業していたり、音楽を演奏していたり、会議中であっても、内なる静けさを保つことはできます。

 

   市場の喧騒の中にあって静かな場所を心の中に保つことが大切です。この静かな場所とは、神が住み、私たちに語りかけられるところです。そこはまた、私たちが忙しい日々の中で出会うすべての人に、癒しとなるような方法で語りかけることの出来るところでもあります。そのような静かな場所がないと、空回りの状態になってしまうでしょう。追い立てられるようにやみくもに、あちらこちら走り回ることになるでしょう。けれども、静けさを心に保っていると、私たちが考え、語り、行うすべてのことにおいて、神がやさしい導き手となってくさいます。

 

H.ナウエン、「今日のパン、明日の糧」、聖公会出版、2003年、118項。

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