2017-01-01から1年間の記事一覧

新年のご挨拶

FBを通してつながっている皆さまへ あけましておめでとうございます。昨年も愛読していただき、心から感謝いたします。 次回より、イエスに出会った人々を中心に、彼らの性格や登場場面、イエスに対する反応などを紹介していきたいと考えています。おそらく…

親子関係  聖家族の祝日に当たり

「子どもとは、いちばん大切な客人だ。子どもたちは家の一員となり、特別に面倒をみなければならず、しばらくのあいだ家に留まりから、自分自身の道を歩むために去っていく。親が息子や娘のすることすべてに責任があると思い、子どもに対してある親の罪悪感…

クリスマス 2017年

キリストのご降誕おめでとうございます。 「わたしが来たのは、あなた方が命を受けるため、 しかも豊かに受けるためである。」ヨハネ福音10章10節 キリストの誕生は、人生に希望を、心に光をもたらす。 信仰することは旅立つときのみではなく、生涯を生き抜…

人間になる

古代ギリシアの神託所の入り口に「汝自身を知れ」と書き記された命令がありました。昔も今も人間となるための重大な条件です。何が私たちを動かしているのかをしっかりと見極めることで、言い換えれば自己認識のことです。「あなた自身を愛しなさい」という…

神に愛されている子ども

私たちの短い生涯の間、その行動の大部分を方向づけるのは、「自分は何者か」という問いでしょう。日々の小さいな決断の中で、その問いをきわめて具体的にいきていると言えます。その問いに対して三つの答え方をしています。口で言わなくても、そう生きてい…

周囲に管理されることに気付く

古代ギリシャの哲学者であるソクラテスは、「目覚めていない人生は生きるに値しない」と言いました。ほとんどの人は、悟ることなく人生をおくっています。機械的に生き、機械的に考え、機械的に答えを出します。テレビを見ていると、些細なことで泣き出すキ…

「目覚める」と霊性

福音箇所は Laudate | 教会カレンダー 2000年頃からスピリチュアル・ブームが起こり、それに関連するグッズや書籍が店頭に並ぶようになりました。それらを購入する人の多くは、霊的なものにすがろうとしており、夢中になっている人が後を絶ちません。「霊性…

地球の誕生と成長 聖書週間に当たって(2) 

天才アインシュタインが初めて相対性理論を思いついたのは1905年でしたが、そのとき彼はまだ、宇宙とは永遠不変の存在と確信していました。しかし1929年に、天文学者ハッブルが、宇宙は膨張し続けていることを立証したのです。今日では、宇宙には1~2兆の星…

創世記を読み直す ー 聖書週間に当たって(1)

聖書の一番初めの物語である創世記は、天地が創られたというより、その当時の人々にとっての苦しみがいつ始まったかということに関心があったようです。歴史的な背景として、紀元前6世紀から8世紀にかけて、祖国を奪われ隣国の支配下に置かれます。そして…

眠った後再び立ちあがる

福音箇所は Laudate | 教会カレンダー (マタイ25章1~13節) 車は便利です。二人、三人と乗って遠いところまで行くことができ、重くて大きな荷物も簡単に運ぶことができます。しかし、遠くまで走らなくても、そして何も運ばなくても、車が動くためにはガソ…

正しく生きる、正しく語る 

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー(マタイ23章1~12節) 神の証し人となるということは、この世界に神がおられることの生けるしるしとなることです。どのような生活をしているかということのほうが、どんなことを話しているかということよいも大切です。…

福音宣教とは (5)

福音の心を証した人 (シャルル・ド・フーコー, 1858 – 1916) 1858年、フランスのストラスブルグで生まれました。多感な思春期に信仰を失い、無規律な生活を過ごしますが、軍人になり、モロッコ探検を機に神の現存に心を揺り動かされ28歳で回心します。…

福音宣教とは(4) 

「力あるかたがわたしに偉大なことをなさいましたから」(ルカ1・49)。 「おとめマリアが受けた偉大なたまものの一つは信仰です。神を信じることははかりしれないたまものですが、それを受け入れることを必要とします。マリアの賛歌」は、一人の信仰あふれ…

福音宣教とは (3)

「相手の外見、能力、ことばの遣い、気質には関係なく、また、与えられる自己満足ゆえでもありません。すべての人は神の作品、神の被造物であるがゆえなのです。すべての人間が主の無限のいたわりの対象です。」(福音の喜び、274) ネルソン・マンデラ アパ…

福音宣教とは(2)

「教会は強引な改宗活動によってではなく、人を引き付けることによって成長するのです」(福音の喜び、14) 神のいつくしみの顔、福者ユスト高山右近 高山右近は(1552―1615)、今年の2月に福者に列せられました。右近は、キリストの教え・愛の言葉・贖いの…

福音宣教とは (1)

キリスト信者にとって、世界宣教は最大のいつくしみのみわざです。宣教の使命を果たすため教会は、いまだにイエスの福音を知らない人々に温かく語りかけ、物的・精神的のあらゆる側面の救済を図りつつ、主の愛、平和といつくしみを味わってほしいと望んでい…

天の国のまなざし

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー (マタイ20章1~16節) 本日のたとえ話を読んで、主人の態度に対して「一日中働いた人に1デナリオン。一時間しか働かなかった人にも1デナリオン。これはおかしいのでは?」と首をかしげる人も少なくないでしょう。私た…

死ぬ心構え 

死はしばしば突然やって来ます。交通事故、病気、戦争、災害などなど。健康で力がみなぎっているときには、自分の死について考えることはありません。それにも拘わらず、死は全く思いがけずにやって来ます。どうすれば死に備えることが出来るでしょうか。決…

教会・人と建物

福音箇所は Laudate | 教会カレンダー(マタイ18章15~20節) 通常、皆さんは「教会」と聞けば、「〇〇教会」と書かれた建物を思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、これは本来の意味ではありません。日本語の「教会」とは、ギリシャ語の「έκκλησία(エ…

被造物を大切にする世界祈願日

教皇フランシスコは2015年、回勅「ラウダト・シ」を発表した。去年、「共に暮らす家を大切に」という副題と共に翻訳が出版された。「わたしたちの家、地球を大切に」という『回心』を呼びかける教皇メッセージに、どれだけの人が耳を傾けて実行しているのだ…

「イエス・キリスト」

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー (マタイ16章13~20節) 日本語で欧米人の名前を書く時、私の本名のレナト・フィリピーニのように、名前と姓の間に「・」が表記されます。しかし、イエス・キリストの場合、「イエス」が名前で、「キリスト」が姓という…

人生における勇気

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー (マタイ15章21~29節) 本日の福音書を読むと、人生は冒険であり、勇気が必要不可欠だと感じられます。登場人物は女性でありながら、イエス様に大胆にも挑戦しているからです。男性社会の時代では、女性は男性の所有物…

市場の中の静かな場所

聖書朗読は Laudate | 教会カレンダー (列王記上19章9~13節) 「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩編46・10)。これは忙しい生活をするにあたり、覚えておくとよい言葉です。私たちは、静けさを騒がしい世界と対比させて考えるかもしれません…

聞くこと

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー (マタイ17章1~9節) 聖書は、単なる過去の物語ではありません。現在の私たちにも語りかけている書物です。「祈るとき、あなたは神に語りかけます。あなたが読んでいるとき、神はあなたに話しかけます」という箴言があ…

人生に隠された宝

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー (マタイ13章44~52節) 福音書にある最初の二つのたとえ話に、「すっかり売り払い」という表現が出てきますが、これはよく誤解される表現です。宝を手に入れるという前提で「売り払う」のではありません。福音書に登場…

イエスの見方 

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー (マタイ13章24-30節) 今日の福音書には、収穫の場面が描かれており、畑によい麦と毒麦が登場しています。ここで、私たち人間の世界に目をむけてみましょう。仕事を効率良くこなす人とそうでない人や、健康な人と病人…

人生の土壌に蒔く

福音箇所は Laudate | 教会カレンダー マタイ13章1-9節) 価値のある人生や実り豊かな人生とは、成功や名誉などを手に入れることではありません。価値のある人生とは、自分の道を歩みながら成長し続けることです。人生は土壌のようなもので、様々な出来…

「人生に気をつけて」

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー (マタイ11章25~30節) 「体に気をつけて」という表現はよく使われていますが、「人生に気をつけて」とはおそらく聞いたことがないでしょう。しかし、人生には山があり谷があり、また波風も立つのです。熱心に物事に取…

一杯の冷たい水 

福音箇所 Laudate | 教会カレンダー(マタイ10章37~42節) 暑い季節に、頼まれなくても自ら進んで冷たい水を一杯飲ませてあげることはごく普通のことであり、大したことではありません。しかし、イエス様にふさわしい弟子、つまりキリスト者としてふさわし…

存在を生み出す不在 

病気の人や死の床にある人、閉じこもったままの人、障がいを持った人や孤独な人を訪ねるのはよいことです。同時に、少ししかいられない、あるいはたまにしか行かれないからといって、後ろめたく思わないことも重要です。 わたしたち自分の限界について言い訳…