クリスマスはあなたです!(クリスマスと私たち 5)

クリスマスはあなたです、毎日、新たに生まれかわると決心して、魂を神に開くとき。

クリスマスツリーはあなたです、人生の強風と困難に強く耐えているとき。

クリスマスの飾りはあなたです、あなたの人徳が人生を彩るとき。

クリスマスの鐘はあなたです、人々を呼び集め、一つにしようとするとき。

    クリスマスの光もあなたです、あなたの人生が人々の歩みを照らし、

あなたの優しさと忍耐、喜びと寛大さが輝くとき。

クリスマスの天使はあなたです、世界にむけて平和と正義と愛のメッセージを

歌うとき。

クリスマスの星はあなたです、誰かを主なる神にまで導くとき。

東方の賢者もあなたです、相手が誰か気にせずに自分の宝を与えるとき。

クリスマスの音楽はあなたです、自分の中に調和を勝ち得たとき。 

    クリスマスのプレゼントはあなたです、すべての人の真実の友となり兄弟と

なるとき。

クリスマスカードはあなたです、あなたの手に愛が書き記されているとき。

クリスマスの挨拶はあなたです、自分が苦しむときさえも、

相手を許し、平和を呼び戻すとき。

クリスマスのディナーはあなたです、側にいる貧しい人をパンと希望で満たすとき。    

    あなたはそう、クリスマスの聖なる夜です。

夜の静けさの中で、騒がずに世界の救い主を謙虚に受け入れるとき、

あなたは愛と希望のほほえみとなり、内なる平和によって朽ちることのないクリスマスがあなたの中に天の国を芽生えさせるのです。

 

   クリスマスに似ているすべての人に、喜び溢れるクリスマスを祝うことが出来ますように。

                                                          (教皇フランシスコによるクリスマスメッセージ)

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注意深さの天使 (クリスマスと私たち 4)

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー

   注意深さは『重んじる、顧慮する、尊敬する、思いやりを持って何かを行う』という言葉からきています。それは、目を覚ますということと関係しています。注意深く呼吸する人、注意深く足を運ぶ人、注意深くスプーンを手に取る人、いま行っていることに集中している人は目覚めています。

    私たちの多くは眠りながら生きていると言われています。その人たちは何をしているのかまったく気づいていません。自分自身の人生を幻想にしてしまっています。そして、現実の人生とは何らか触れ合っていないのです。注意深さはとは私たちに事柄や人間と実際に触れ合うことをもたらします。

   黙想とは、今自分がしていることを単純に重んじるということです。そうすると、注意深さは、私たちの人生に新しいスパイスを与える霊的な力であることに気がつきます。注意深さの天使は私たちに何度も何度も触れ、眠りから目覚めさせ、今この瞬間に自分が存在していること、今行っていることを丁寧に行うことに気づかせてくれます。しかし、注意深さを身につけることは簡単にはできません。日々鍛錬しなければなりません。

              A.・グリユーン、「50の天使。1年の歩みのために」

                 キリスト新聞社、2007、152~54項からの抜粋

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慰めの天使 (クリスマスと私たち 3)

朗読箇所は Laudate | 教会カレンダー   

   「聖書のギリシア語の『慰める』は、その意味が、こちらに呼び寄せる、招待する、助けを求める、元気づける、よい言葉で話しかける、ということです。喪失経験に苦しむ人は、その人の傍らに立ち、必要であるならその人を助け、ふさわしい言葉で語りかける天使を必要とします。

    慰めることは、その人に話しかけることであり、その人の心に届く言葉を語る慰めること、まさにその人に働きかける言葉を語ることです。慰めるとは、心からに伝わる言葉、私の心から出る言葉を語ることです。それは、リアリティーのない型にはまった言葉ではなく、聞く人の心で花を咲かせることばです。そして、新しい視野を開き、その人がしっかり立つことができる拠り所を与えるのです。  

   慰めるとは、自分自身に閉じこもっている人、困難がその人の口も心も閉ざしてしまった人と共にいるということです。人と共にいるということは、その人の痛みを分かち合い、その人に寄り添い、その人の痛みの中に留まるということです。その人の暗闇、葛藤、苦しみという家に留まり、そこにじっとしている必要があります。」 

             A.・グリユーン、「50の天使。1年の歩みのために」、

                 キリスト新聞社、2007、180~83項からの抜粋

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配慮の天使 (クリスマスと私たち 2)

 朗読箇所は Laudate | 教会カレンダー 

   「配慮のある人は、現実を現実そのものとして判断します。私はまず現実を正しく認識しなければなりません。そうすることによって、現実にふさわしい行動することができます。私の人生をその現実にふさわしいものへと整えたときに、私の人生はその本来の役割をなしえることができます。

    一つの判断をしなければならないとき、あなたは配慮の天使を必要とします。あなたの配慮の天使はあなたよりもはるかに先を見通しています。配慮の天使はより広い視野を持っています。配慮の天使はあなたの判断がどのような結果を招くかということを予見しています。あなたは自分の決断にとって何が最も深い動機であるのか、そしてどの決断が現実に最もふさわしいものであるのかということを見極めるために、配慮の天使に相談しなければなりません。

    配慮という言葉には、心という文字が使われています。つまり、配慮とは、単に頭で理解するだけではなく、心で物事を判断することでもあります。配慮によって、与えられたチャンスを大胆に据えます。配慮によって荒っぽい判断では見落としてしまう繊細な違いを見極めます。配慮は実践的な理性です。それは知識を現実に適応した行動をもたらします。」

                                      A.・グリユーン、「50の天使。1年の歩みのために」、

                                                               キリスト新聞社、2007、184~6項からの抜粋。

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今という時   (クリスマスと私たち 1)

  クリスマスの季節には、教会だけではなく、住宅から公共の施設まで、鮮やかなイルミネーションで飾り付けられます。子どもにとっては、サンタクロースからクリスマスプレゼントがもらえるので、待ちに待った季節がやってきたと言っても過言ではありません。

  大人は子どもと違って、人間関係や仕事など、複雑に入り組んだ状況の中で暮らしているので、楽しいクリスマスの雰囲気を味わうことはなかなか難しいのではないでしょうか。今回から数回にわたって、聖書に書かれたメッセージを通して、大人にとってのクリスマスの時期の過ごし方についてお話ししたいと思います。クリスマスは、子どものためのおとぎ話ではなく、私たちがよりよく成熟した人間になることを目指すのに良い季節なのです。せっかくですから、こういう機会を持ってみませんか?

 書簡朗読 Laudate | 教会カレンダー ローマの教会への手紙13章11~14a節)

  本日の朗読個所に「みなさん、あなたがたは、今がどんな時であるか知っていますか」と書かれています。聖書には「時」を表すための二つの言葉があります。それは、「クロノス」と「カイロス」です。「クロノス」は時計のことで、時間や月日の流れを表します。一方、「カイロス」は機会という意味です。それは時間の経過ではなく、有意義な時間の過ごし方を表しています。

  ここで例を挙げてみましょう。5分間だけお気に入りの音楽を聞く時、何回も同じ曲を聞いたり、もう一曲聞こうと思ったりして、あっと言う間に1時間が経過してしまうという経験があるかもしれません。あるいは、バスの到着を5分待つ時は、5分以上も待っていると感じるかもしれません。5分は5分ですが、その時を過ごす人の気持ちと環境によって違ってくるのです。 

 「今」は出会いの良い機会です。「今」それに気づき、「カイロス」に応えましょう。

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王であるキリスト*の声 (ヨハネ18章33b~37節)

福音箇所は Laudate | 教会カレンダー

   王の声は、「命令」を意味します。脅迫を感じさせる恐ろしい声です。また、生死を決定する声でもあります。ピラトの「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」という言葉を思い出してみてください(ヨハネ19・1)。

   一方、イエスの声は自ら命を捧げる声です。「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。」(ヨハネ10・18)や「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(ルカ23・42~43)という言葉から、イエスの声が命を脅かすどころか、生きる希望を与える声であることを実感することができるでしょう。    

* カトリック典礼暦では、11月22日は「王であるキリスト」の祭日です。この祭日は、1925年に教皇ピオ11世が「王であるキリスト」の祝日と定めたものです。ドイツではヒトラー、イタリアではムッソリーニソビエトではスターリンが独裁体制を固めている時代でした。

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