「あなたが祈る時」 

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー  (マタイ6章1~6、16~18節)

   福音箇所に「あなたが祈る時」と書かれていますが、この表現について二つの指摘があります。一つ目は、「あなたが祈るなら」ではなく、「常に祈っているあなた」であってほしいこと、つまり、祈る姿勢は忠実であることが強調されています。二つ目は、定期的に行うこと。日常生活において時間を割いて祈ることです。しかし、祈りたいと思っている時こそ雑念が浮かんでくることが多く、それと闘うことでエネルギーを費してしまうのです。では、どうすればいいのでしょうか。

    雑念と闘って追い出すことに力を使うよりも、距離を置くことが大切です。雑念は必ずしも価値のないものではありませんが、祈りはより価値のあるものなので、祈りを優先させるからです。

   祈りとは、神との対話というよりも神のみ前で沈黙することです。語ることではなく、沈黙する、すなわち神のうちに心を沈ませる姿勢なのです。それによって、私たちが神に引き寄せられていきます。祈りの本質は、神に対する私たちの願いが聞き入れられるかどうかということよりも、私たちに対する神のみ旨の実現を願い、それを信頼することなのです。

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「思い悩むな」

今から日本に帰ります。帰国する前に、イタリアから最後のメッセージをお伝えします。次は日本でお会いしましょう。

 

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー

   本日の福音箇所を理解するために、時計と羅針盤の二つのイメージを使ってみましょう。私たちの生活は、時計に管理されていると言っても過言ではありません。時間に追われながら、様々な物事を考え、実行しているので、これを時計に縛られた暮らしと呼びます。

   では羅針盤はどうでしょうか。羅針盤は船乗りたちを目的地へ導くものです。私の立場で言い換えると、イエス様に導かれて生きることと言えるでしょう。例えば、福音の価値観に基づいて生きようとすると、それによって一貫した生活が成り立っていきます。

   最後に、皆さんに紹介したい祈りがあります。よく知られている祈りですが、最初の部分しか知られていません。今回、皆さんに全文を提供させていただきます。

 

「平安の祈り」
神様、どうか私にお与えください。
変えられないものを 受け入れる心の平安を
変えられるものを 変える勇気を
そして、その違いを見極める知恵を
与えられた一日を精一杯
生きることができるように
一瞬一瞬を 楽しむことができるように
苦しみは平安への通り道であることを
受け入れることができるように
たとえ自分の願いどおりにならなくても
主イエスがされたように この罪深い世界を
そのまま受け入れることができるように
もし あなたの御心にゆだねるなら
あなたが全てを正しく導いて下さることを
信じることができるように
そうすれば私はこの地上において
幸いな人生を送りまた天国においては
あなたと共にある最高の幸せに
与ることができるでしょう。アーメン

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理性の愛 

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー  (マタイ5章38~48節)

   私たちはしばしば、愛するということが自然発生的な感情の結果であると思っています。でもそうではないのです。本当の愛は、私がこの人に対してどうあるべきかということが愛なのです。つまり、努力の結果、生まれてくるのが本当の愛なのです。身近な例でいえば、姑と嫁の関係です。いやな姑を持つ嫁がいるとしましょう。そうすると、姑の顔も見たくないと思ったり、姑の使ったタオルに触るのもいやだと言って、二本の指でつまんだりします。

   しかし、もし姑が自分の母だとしたら、どうするでしょうか。このことから、理性で行動することが大切だということを学ぶでしょう。また反対に、いやな嫁がいたら、その嫁を特に好きにならなくてもいいのです。ただ、その嫁が好きであるのと同じように、理性的な行動をとるのです。例えば、病気になったら薬を持っていってあげるとか、寒かったら温かい衣服を買ってあげるとか、食欲がなかったら好きなものを食べさせてあげるということです。

   そのうち、ごく自然に、両者の間に意図的な愛を超えた自然な好意の流れが成り立つ関係が生まれるかもしれないのです。「理性の愛」とは、このような関係の源流であり、最後まで残る流れなのです。 

                    曽野綾子著 『現代に生きる聖書』参考。

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「完成するため」

 福音朗読は  Laudate | 教会カレンダー  (マタイ5章7~37節)

    イエス様はどのように旧約聖書の教えを完成させたのでしょうか。律法の文字に縛られるのではなく、本来の意図すなわち神の望みは何であったのかという点にさかのぼって律法を再解釈しました。それは、律法学者とファリサイ派の律法の解釈と対立するものでした。しかし、イエス様は新しい律法を作ったのではなく、律法に込められている神の本来の意図をもう一度呼び起こすことによって、律法を完成されたのです。

  イエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」と宣言しました。「完成すること」は、律法によって神の本来の望みを思い起こさせ、再確認するという意味です。一つ例を挙げてみましょう。「殺すな」という掟があります。イエス様は、この掟に込められた神の本来の意図を表現しました。「殺すな」とは、銃や刃物で殺すことだけではなく、神から与えられたいのちを軽んじることや神の似姿として作られた人格を傷つけることも、「殺すな」の掟に含まれているとイエス様は訴えているのです。

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ユスト高山右近―忠実なキリスト者 

  30年前、ザベリオ会の先輩から「キリストは私たちから成功を求めたり、完璧さを期待したりしない。私たちから求めているのは、キリストに忠実な者であることです」ということばを頂きました。しかし、私たちは「どれだけ成功しているか、どれだけ完璧に近づいているか」とついつい考えがちではないでしょうか。
  カトリックの伝統の中で、「赤い殉教」と「白い殉教」という二つの表現があり、二つの信仰の証のあり方を表しています。「赤い殉教」とは命を捨てる、つまり、信仰のために拷問や暴力を受けて殺されるという意味です。長崎の26聖人の殉教者がこれに当たります。それに対して、「白い殉教」とは日常のことをしながら、信仰のためにキリストを他者に証しすることを表しています。日常生活において、様々な形で、あらゆる機会を利用して、証しするという意味なのです。つまり、生涯にわたる一貫した信仰、堅忍、忠実さの証のあり方なのです。それを体現したのは、2月7日に列福式が予定されているユスト高山右近です。信仰の自由が認められている現代の日本では、白殉教の実...践が大切だと思います。
   高山右近の詳細について高槻教会のHPまでご覧ください。
カトリック高槻教会 - 高山右近

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