「人生に気をつけて」

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー (マタイ11章25~30節)

   「体に気をつけて」という表現はよく使われていますが、「人生に気をつけて」とはおそらく聞いたことがないでしょう。しかし、人生には山があり谷があり、また波風も立つのです。熱心に物事に取り組む時期もあれば、疲れきってしまう時もあるでしょう。元気なときもあれば、力のないときもあります。それは、人生が日常の暮らしの中で展開しているからです。従って、「人生に気をつけて」というのは、人生における谷間や波に注意し、その状況に応えるようにということです。例えば、休息は必要です。時には体と心、そして人生に休息と余裕を与えましょう。

    人生の旅の途上で、私たちは複雑な人間関係に疲れているかもしれません。理解してもらえることが少ない反面、誤解されることは多く、傷ついて疲れています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(28節)。これは、イエス様からの暑中見舞です。忙しい日常生活と複雑な人間関係に疲れている私たちは、この機会にイエス様のもとで休んでみるのはどうでしょうか。

f:id:nipponblog:20170707170525j:plain

一杯の冷たい水 

福音箇所 Laudate | 教会カレンダー(マタイ10章37~42節)

   

   暑い季節に、頼まれなくても自ら進んで冷たい水を一杯飲ませてあげることはごく普通のことであり、大したことではありません。しかし、イエス様にふさわしい弟子、つまりキリスト者としてふさわしい行いをすることは難しいです。なぜなら、それはイエス様に祈ることではなく、イエス様のようにふるまうことを意味するからです。そして、イエス様のようにふるまい、他者を気遣おうとする心構えは、冷たい水一杯を通して表されるのです。

    ミケランジェロによって描かれた名画『最後の審判』には、生前、困っている他者に対して行ったあるいは怠ったことを通して裁かれた人々が描かれています。どのようにして裁かれているのでしょうか。イエス様は、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にした(しなかった)のは、わたしにしてくれた(くれなかった)ことなのである。」と宣言なさいます。喉が乾いている人がいれば、冷たい水一杯でも大したことになるのです。

f:id:nipponblog:20170630131338j:plain

 

存在を生み出す不在 

   病気の人や死の床にある人、閉じこもったままの人、障がいを持った人や孤独な人を訪ねるのはよいことです。同時に、少ししかいられない、あるいはたまにしか行かれないからといって、後ろめたく思わないことも重要です。 わたしたち自分の限界について言い訳しがちで、そのため人を訪ねる時、言い訳ばかりが先に立ってしまい、その人と心から一緒にいることができなくなってしまいます。短時間でも、病気の人のそばに心か一緒にいることのほうが、忙しすぎて、たびたびくることができないと長い時間説明するよりも、遥かによいでしょう。 

   もし、その友だちのそばに本当にいることが出来たら、わたしたちが去ったあと、多くの実りがもたらせます。友人たちは「彼が来てくれた」とか「彼女が来てくれた」と言って、わたしたちがいるという消え去ることのない恵みを見出すでしょう。

 

H.ナウエン、「今日のパン、明日の糧」、聖公会出版、2003年、111項。

f:id:nipponblog:20170623172933j:plain

神様からの贈り物を思い起こす 

朗読箇所は Laudate | 教会カレンダー (申命記 8章2~3、14b~16b節)

   信仰を表す表現やイメージは様々ありますが、先日、次の表現が目に入ってきました。「信仰は神様から頂いた贈り物を思い起こすこと」。言いかえれば、信仰を祈り求めるのではなく、先に神様から信仰の恵みが与えられ、それを頂いたことに気づき、体験するということです。そして、信仰の贈り物に対して感謝することが大切です。命をはじめ、今日までの様々な出会いと出来事を通して、自分の人生において神様がなさったこと、つまり不思議なわざを思い起こし、感謝する接し方なのです。

   この精神は、感謝の祭儀であるミサにも当てはまります。ミサが行われるたびに、私たちはイエス様が自分の命をささげたことを思い起こしています。この救いの業をたたえるのが感謝の祭儀なのです。

   ちなみに、「思い起こす」の反対の表現は「忘れる」ですが、「忘れる」という漢字は「心を亡くす」と書きます。これは非常に深い意味があると思いませんか。

f:id:nipponblog:20170616173426j:plain

一万回の感謝

  本日、6月11日(日)昼頃に「レナト神父のブログ」は1万回のアクセス数を突破しました。ブログを愛読していただいている一人ひとりのみさまにこころから感謝いたします。これからもよろしくお願いいたします。

                                レナト神父

        f:id:nipponblog:20170611121415g:plain

 

双方の行為 

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー (ヨハネ3章16-18節)

 

  キリスト教カトリックプロテスタント聖公会正教会)の世界では、「三位一体」は共通の考えであり、中心的な信条です。三位一体というのは、順番づけることではありません。それは、父とひとり子と聖霊の交流であり、愛の絆による相互の交わりなのです。

   一つの例を挙げてみましょう。「私はいちごを愛している」と言えるでしょうか。それは、好みであって愛ではありません。この場合、相手がいないので、一方的で自己中心的な見方となるのです。愛は二人になってから、はじめて誕生します。

  愛には受ける側の反応もあります。注がれている愛を認識し、喜びを感じる双方向の行為ということができます。しかし、互いだけを見つめて、周囲を無視したり二人の世界に閉じこもったりするなら、やがてその愛は自己中心的なものになってしまいます。本当の愛が生き生きと豊かに流れていくためには、自己中心性を破る三人目が必要なのです。

   この愛の道理は、信仰生活にも当てはまります。ひとりと神との関係だけにとどまるのではなく、交わりに与り、生きるために隣人との絆も欠かせません。つまり、人生の道を歩みながら、多くの人たちと交わり、語り合い、そして助け合うことが必要なのです。

f:id:nipponblog:20170609201148j:plain

聖霊と私たち

書簡朗読は Laudate | 教会カレンダー (第1コリントの教会への手紙 12章3b~7、12~13節)

   外国で暮らしている宣教師として、私は「言語」と「ことば」に関する特別な関係を毎日経験しています。この特別な状況の中で、日本語という「言語」を用いた日常の経験から感じたことや得たものは数え切れません。また、「言語」が伝える「ことば」は、実に不思議な力を持っています。たった一つの「ことば」が人に安心や不安を与え、また一つの誓いや約束が、人生を左右するものとなるからです。

   少し大胆に思われるかもしれませんが、私たちにできることがあります。聖霊の道具になって、助言をし、慰めと希望の「ことば」をかけることです。必要としている人に「安心して。一人ではないよ」や「そばにいてくれてありがとう」など、私たちの口からでてくる「ことば」は聖霊の炎のように相手の心の耳に入るのです

   聖霊には、もう一つの不思議な業があります。聖霊は様々な贈り物を与えることによって、一人ひとりを特別な存在にしてくださるのです。贈り物をいただいた人は、自分のためだけではなく、与えられた贈り物を分かち合って奉仕するものなのです。

f:id:nipponblog:20170602204006j:plain