キリストのご降誕おめでとうございます。
「わたしが来たのは、あなた方が命を受けるため、
しかも豊かに受けるためである。」ヨハネ福音10章10節
キリストの誕生は、人生に希望を、心に光をもたらす。
信仰することは旅立つときのみではなく、生涯を生き抜く支えとなる。
キリストのご降誕おめでとうございます。
「わたしが来たのは、あなた方が命を受けるため、
しかも豊かに受けるためである。」ヨハネ福音10章10節
キリストの誕生は、人生に希望を、心に光をもたらす。
信仰することは旅立つときのみではなく、生涯を生き抜く支えとなる。
古代ギリシアの神託所の入り口に「汝自身を知れ」と書き記された命令がありました。昔も今も人間となるための重大な条件です。何が私たちを動かしているのかをしっかりと見極めることで、言い換えれば自己認識のことです。「あなた自身を愛しなさい」ということは自己陶酔ではなく、自分自身に同意するようにという意味です。わたしは自分自身を愛することによって、わたしが存在するままの姿に作られた神を愛します。
自分自身をまじめに考える人は、偉そうに振る舞う人のように自分を大きく見せるか、もしくは自分自身を軽視し自分を実際よりも小さく見せます。あなた自身を愛するということは、あるがままの自分自身を愛するということを意味します。あなたは、神があなたに思い描いたようなあなたになることができ、神があなたを召されているものにすることも出来るのです。
レオ1世(ローマ教皇、在位:紀元440年- 461年)はあるクリスマス説教において次のように表現しました「キリスト者よ、あなたの尊厳を知ってください!あなたは神の本質の恩恵にあずかっています」
グリューン、「クリスマスの黙想―新しい始まりを祝う」、キリスト新聞社、85~86 参照。
私たちの短い生涯の間、その行動の大部分を方向づけるのは、「自分は何者か」という問いでしょう。日々の小さいな決断の中で、その問いをきわめて具体的にいきていると言えます。その問いに対して三つの答え方をしています。口で言わなくても、そう生きています。その答えとは「自分とは、自分の行ったことだ」「自分とは、他人からどう見られているかだ」「自分とは、自分の所有しているものだ」という答えです。言い換えれば「自分とは成功のこと、人気のこと、権力のことだ」となります。
成功、人の歓心、権力に左右される人生はもろい、と悟ることはとても大切です。なぜかというとこの三つはいずれも、自分でコントロールすることの困難な、外的要因だからです。成功や人気や権力に頼るなら、私たちは自分をこの世に売り渡していることになります。
イエスは、成功、人の歓心、権力に基づいた自己は偽の自己、幻想だと伝えるために、この世に来てくださいました。大声ではっきりとイエスはこう語られました。「この世が与えるあなたの姿は本物ではありません。あなたの真の姿は、あなたが神の子どもだということにあります」
H.M. ナーウエン、「いま、ここに生きる、生活の中の霊性」、あめんどう、202-3.
古代ギリシャの哲学者であるソクラテスは、「目覚めていない人生は生きるに値しない」と言いました。ほとんどの人は、悟ることなく人生をおくっています。機械的に生き、機械的に考え、機械的に答えを出します。テレビを見ていると、些細なことで泣き出すキャスターや観客が映っており、情緒まで機械的になっているように感じます。さらに、日常生活の場でも、お店のドアのチャイムが鳴ると、すぐに「いらっしゃいませ」や「ありがとうございました」と言い、機械のように行動し、機械のように反応する姿を目にするはずです。
実際に、自分がどれほど機械的であるか知りたいでしょうか。例えば、あなたが誰かに「いいね」と言われると良い気分になるのであれば、反対に「マトモじゃないね」と言われると気分を害する覚悟をしたほうがいいでしょう。どんな服を着ているか、髪をきちんと整えているか、靴を磨いているかどうかなど、他人の忌ま忌ましい期待に一つ一つ忠実に答えているかを考えると、自分が機械的であるかどうか気づくことでしょう。そのような振る舞いは、人間的だと言えるでしょうか。
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2000年頃からスピリチュアル・ブームが起こり、それに関連するグッズや書籍が店頭に並ぶようになりました。それらを購入する人の多くは、霊的なものにすがろうとしており、夢中になっている人が後を絶ちません。「霊性」という言葉をご存知でしょうか。これは「目覚めること」を意味し、一般的な「スピリチュアル」とは少し違います。「霊性」とは、日常生活に存在する物事を通して気づき、神秘的な体験ができることなのです。この視点から考えてみると、ほとんどの人は「眠っている」と言っても過言ではありません。人々は「眠っている間」に大人になり、結婚し、子どもを育て、そしてそのまま死んでいきます。人間の存在を意識することなく、自身の人生やその美しさを理解していないのです。ここで、一つの物語を紹介しましょう。
ある人がワシの卵を見つけ、それをめんどりの巣の中に入れた。 ワシはニワトリの雛とともに孵化し、成長した。ワシは自分がニワトリであると思い、ニワトリの雛がするのと同じようにした。ミミズや昆虫を捕まえるために、地面をかいた。ワシなのに、「コッコッ」と鳴いた。羽をばたつかせ、数十センチ飛んだ。年月が過ぎ、ワシは年をとった。ある日、雲のない空に壮大な鳥が飛んでいるのを見た。強風の中、力強い黄金の翼を激しく動かすこともなく、優雅で威厳ある姿で滑空していた。年老いたワシは畏敬の念を持って見上げていた。「あれは誰?」とワシは尋ねた。隣にいたニワトリは、「鳥の王であるワシです。ワシは空の住人です。私たちは地上の住人です。なぜならニワトリだからです。」ワシはニワトリとして生き、死んでいった。自分のことをニワトリだと思っていたからだった。
天才アインシュタインが初めて相対性理論を思いついたのは1905年でしたが、そのとき彼はまだ、宇宙とは永遠不変の存在と確信していました。しかし1929年に、天文学者ハッブルが、宇宙は膨張し続けていることを立証したのです。今日では、宇宙には1~2兆の星雲が高速度で広がっていると言われています。宇宙の源であるビッグバンが起きたのは今から137億年前で、地球は45億年前に生まれたと計算されています。そして、数億年かかって地球の動きにより陸と海の形が整っては全滅し、それが数回くり返されたと言われます。
地球には今まで3千万種類の生物が現れ、なくなり、また新しく生まれることを繰り返したと、地質学者たちが教えています。そして、人間(ホモ・サピエンス)は、石器時代の少し前、つまり10万年前に姿を現しました。その後、今から1万年前に農業が始まって人口が増加し、紀元前1500年には、人類の人口がもう5億人を超えていました。 聖書に登場するアブラハムは、紀元前1850年ごろにカナンに到着。私たちに伝わる旧約聖書の歴史背景の始まりです。
(ヴァチカン天文台、「宇宙を探検する、神学への科学の挑戦」2016年)。
創造神学と現在の科学、山野内 倫昭、聖書週間2017年。
聖書の一番初めの物語である創世記は、天地が創られたというより、その当時の人々にとっての苦しみがいつ始まったかということに関心があったようです。歴史的な背景として、紀元前6世紀から8世紀にかけて、祖国を奪われ隣国の支配下に置かれます。そして、神殿も破壊され、異国の地に連れられて行くのです。この悲惨さを経験している民に対して、創世記は苦しみの中に置かれた民に、希望をあたえる物語なのです。
創世記1章から11章までの主なテーマは、人類が経験する苦しみの由来を説明しています。3章からアダムとイブの過ちや人類最初の殺人とされるカインとアベルの物語、そして広まった悪を一掃する洪水、さらにはバベルの塔の物語へと展開していきます。それらの物語の前に置かれている1章と2章を見てみましょう。1章1節にある「はじめに」ということばは、「元々、悪は存在しなかった。まず、神はすべてを美しく輝かしく創ったのだ。」ということを思い起こさせる希望のメッセージがあります。
創世記は、罪と悪のなぞを解明しようという意図で編集されています。天地の構造を説明するのではなく、天国への道を示しているのです。