新年のご挨拶

FBを通してつながっている皆さまへ

 あけましておめでとうございます。昨年も愛読していただき、心から感謝いたします。

次回より、イエスに出会った人々を中心に、彼らの性格や登場場面、イエスに対する反応などを紹介していきたいと考えています。おそらく、彼らのイエスとの関わり方を通して、共感など何か得るものがあるのではないかと期待しています。

 今年もよろしくお願いします。

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親子関係  聖家族の祝日に当たり

  「子どもとは、いちばん大切な客人だ。子どもたちは家の一員となり、特別に面倒をみなければならず、しばらくのあいだ家に留まりから、自分自身の道を歩むために去っていく。親が息子や娘のすることすべてに責任があると思い、子どもに対してある親の罪悪感を感じていることが多いが、子どもたちが客だという意識を持てばそれが解放に繋がる。

  親であることの難しさは、子どもが育ち、身心と共にひとり立ちできる自由を自分のものに出来るように助力することにある。親にとっての誘惑はこどもに執着し、自分自身が到達できなかった目標を押しつけ、直接間接にどれほど自分に恩があるかをほのめかすことだ。成長するまでの何年もの間愛情を注ぎ、手塩にかけたこどもがさっていくのを目のあたりするのは本当に厳しいことだ。 

  しかしかれらにもまた、親が知らず、押しづけることも出来ない自分自身の道筋があって、一時的に家にとどまっている客なのだと自分に言い聞かせれば、おそらく穏やかに子どもの前途を祝福して立ち去らせることが出来る。」

H。ナウェン、「差し伸べられる手、真の祈りへの三つの段階」、女子パウロ会(pp.102~106)。

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クリスマス 2017年

キリストのご降誕おめでとうございます。

 「わたしが来たのは、あなた方が命を受けるため、

しかも豊かに受けるためである。」ヨハネ福音10章10節

 キリストの誕生は、人生に希望を、心に光をもたらす。

信仰することは旅立つときのみではなく、生涯を生き抜く支えとなる。

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人間になる

   古代ギリシアの神託所の入り口に「汝自身を知れ」と書き記された命令がありました。昔も今も人間となるための重大な条件です。何が私たちを動かしているのかをしっかりと見極めることで、言い換えれば自己認識のことです。「あなた自身を愛しなさい」ということは自己陶酔ではなく、自分自身に同意するようにという意味です。わたしは自分自身を愛することによって、わたしが存在するままの姿に作られた神を愛します。

    自分自身をまじめに考える人は、偉そうに振る舞う人のように自分を大きく見せるか、もしくは自分自身を軽視し自分を実際よりも小さく見せます。あなた自身を愛するということは、あるがままの自分自身を愛するということを意味します。あなたは、神があなたに思い描いたようなあなたになることができ、神があなたを召されているものにすることも出来るのです。

     レオ1世(ローマ教皇、在位:紀元440年- 461年)はあるクリスマス説教において次のように表現しました「キリスト者よ、あなたの尊厳を知ってください!あなたは神の本質の恩恵にあずかっています」

 

グリューン、「クリスマスの黙想―新しい始まりを祝う」、キリスト新聞社、85~86 参照。

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神に愛されている子ども

     私たちの短い生涯の間、その行動の大部分を方向づけるのは、「自分は何者か」という問いでしょう。日々の小さいな決断の中で、その問いをきわめて具体的にいきていると言えます。その問いに対して三つの答え方をしています。口で言わなくても、そう生きています。その答えとは「自分とは、自分の行ったことだ」「自分とは、他人からどう見られているかだ」「自分とは、自分の所有しているものだ」という答えです。言い換えれば「自分とは成功のこと、人気のこと、権力のことだ」となります。

     成功、人の歓心、権力に左右される人生はもろい、と悟ることはとても大切です。なぜかというとこの三つはいずれも、自分でコントロールすることの困難な、外的要因だからです。成功や人気や権力に頼るなら、私たちは自分をこの世に売り渡していることになります。

    イエスは、成功、人の歓心、権力に基づいた自己は偽の自己、幻想だと伝えるために、この世に来てくださいました。大声ではっきりとイエスはこう語られました。「この世が与えるあなたの姿は本物ではありません。あなたの真の姿は、あなたが神の子どもだということにあります」

 H.M. ナーウエン、「いま、ここに生きる、生活の中の霊性」、あめんどう、202-3.

                f:id:nipponblog:20171215171321j:plain

周囲に管理されることに気付く

   古代ギリシャの哲学者であるソクラテスは、「目覚めていない人生は生きるに値しない」と言いました。ほとんどの人は、悟ることなく人生をおくっています。機械的に生き、機械的に考え、機械的に答えを出します。テレビを見ていると、些細なことで泣き出すキャスターや観客が映っており、情緒まで機械的になっているように感じます。さらに、日常生活の場でも、お店のドアのチャイムが鳴ると、すぐに「いらっしゃいませ」や「ありがとうございました」と言い、機械のように行動し、機械のように反応する姿を目にするはずです。

    実際に、自分がどれほど機械的であるか知りたいでしょうか。例えば、あなたが誰かに「いいね」と言われると良い気分になるのであれば、反対に「マトモじゃないね」と言われると気分を害する覚悟をしたほうがいいでしょう。どんな服を着ているか、髪をきちんと整えているか、靴を磨いているかどうかなど、他人の忌ま忌ましい期待に一つ一つ忠実に答えているかを考えると、自分が機械的であるかどうか気づくことでしょう。そのような振る舞いは、人間的だと言えるでしょうか。

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「目覚める」と霊性

福音箇所は Laudate | 教会カレンダー

   2000年頃からスピリチュアル・ブームが起こり、それに関連するグッズや書籍が店頭に並ぶようになりました。それらを購入する人の多くは、霊的なものにすがろうとしており、夢中になっている人が後を絶ちません。「霊性」という言葉をご存知でしょうか。これは「目覚めること」を意味し、一般的な「スピリチュアル」とは少し違います。「霊性」とは、日常生活に存在する物事を通して気づき、神秘的な体験ができることなのです。この視点から考えてみると、ほとんどの人は「眠っている」と言っても過言ではありません。人々は「眠っている間」に大人になり、結婚し、子どもを育て、そしてそのまま死んでいきます。人間の存在を意識することなく、自身の人生やその美しさを理解していないのです。ここで、一つの物語を紹介しましょう。

    ある人がワシの卵を見つけ、それをめんどりの巣の中に入れた。 ワシはニワトリの雛とともに孵化し、成長した。ワシは自分がニワトリであると思い、ニワトリの雛がするのと同じようにした。ミミズや昆虫を捕まえるために、地面をかいた。ワシなのに、「コッコッ」と鳴いた。羽をばたつかせ、数十センチ飛んだ。年月が過ぎ、ワシは年をとった。ある日、雲のない空に壮大な鳥が飛んでいるのを見た。強風の中、力強い黄金の翼を激しく動かすこともなく、優雅で威厳ある姿で滑空していた。年老いたワシは畏敬の念を持って見上げていた。「あれは誰?」とワシは尋ねた。隣にいたニワトリは、「鳥の王であるワシです。ワシは空の住人です。私たちは地上の住人です。なぜならニワトリだからです。」ワシはニワトリとして生き、死んでいった。自分のことをニワトリだと思っていたからだった。

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