「知ってるつもりキリスト教」⑦ イエスがのべ伝えた神の国

    聖書に登場する「神の国」というのは、神の愛が全世界に広がることを表しています。イスラエルの民は、古くから強国の支配を受け、圧政に苦しむ歴史を繰り返してきました。そのような状況の中で、人々はいつか必ず神が到来し、苦しみから解放されることを信じていたのです。

      ルカ福音書4章には、イエスユダヤ教の会堂でイザヤの預言を朗読した話が書かれています。イエスが朗読したイザヤ書61章には、神の霊を受けた人によって捕らわれている人が解放され、目の見えない人が見えるようになり、圧迫されている人々が自由になることが書かれています。そしてイエスは朗読を終えると、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4・21)と人々に語ったのです。

     イエスが読み上げた箇所は、神の国が訪れる時に実現することです。その上で、イエスは「この聖書の言葉は実現した」と告げました。つまり、苦しむ人々に救いをもたらすという自分の使命を自覚し、神の愛が広まり始めていることを明確に告げたのです。

 宮越俊光著 『早わかりキリスト教』(日本実業出版社、2005年)参照

***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の提供

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「知ってるつもりキリスト教」⑥ 神を「父よ」と呼んだイエス

    イエスの祈りを伝える福音書では、神に「父よ」と呼びかけて祈るイエスの姿が描かれています(マタイ6・9、ルカ10・21参照)。しかし、聖書に書かれた祈りにおいて、「父よ」の呼びかけで始まるものはありません。この表現は、イエスが用いる祈りの一つの大きな特徴です。

   「父」という言葉は、私たちにあらゆることを思い起こさせます。おそらく、一人一人が自分と生物学上の父親との関係を振りかえるでしょう。その関係は、「素晴らしい」や「そこそこ」、そして「複雑」などではないでしょうか。

     一般的に、父は子どもを守り、養う存在です。普段はどんなに怖くても、父に抱きかかえてもらうと子どもは安心感を得ます。なぜなら、父の存在は子どもにとって頼ることの出来る拠り所だからです。

     さらに、あまり考えていないことですが、私たちが「父」と呼ぶように、私たちを「子」と呼んでくれる人が必要です。私たちが子どもと呼ばれる理由は、先に父が「愛する子よ」と呼びかけたからです。従って、「父」は第一の言葉ではなく第二の言葉です。これがイエスのもたらしてくださった新さです。それは神が一人一人を「わが子」と呼ぶことなのです。

   宮越俊光著 『早わかりキリスト教』(日本実業出版社、2005年)参照

    ***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の提供

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「知ってるつもりキリスト教」⑤ 「イエス・キリスト」

    日本語で欧米人の名前を書く時、私の本名のレナト・フィリピーニのように、名前と姓の間に「・」が表記されます。しかし、イエス・キリストの場合、「イエス」が名前で「キリスト」が姓という意味ではありません。「キリスト」はヘブライ語の「メシア」をギリシャ語で表した形であり、本来の意味は「油を注がれた者」なので、キリストは固有名詞ではないのです。

     旧約聖書では、「油を注がれた者」とは王や祭司、そして預言者に対して用いる言葉でした。その後、民を圧政から解放し、救いに導く指導者を表すように変化していったのです。新約聖書の時代、「メシア」という概念は期待に満ちたものであり、政治的・社会的な救い主というイメージが強かったようです。特に、ローマ帝国からイスラエルを解放し、王国を再建してくださる栄光の救い主への期待が高かったのです。

       そして初期のキリスト教徒は、十字架上で処刑されたイエスこそ神の子であり、救い主メシア、すなわち「キリスト」であると確信したのです。それから、イエス・キリストとは「救い主イエス」という意味で、信仰を簡潔に告白する言葉となったのです。

     宮越俊光著 『早わかりキリスト教』(日本実業出版社、2005年)参照

 ***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の提供

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「知ってるつもりキリスト教」④ 四福音書の特徴

マタイ福音書

      パレスティナ周辺もしくはシリアで、紀元80年代に成立したとされます。著者は十二使徒の一人であるマタイとする伝承があります。ユダヤ教からキリスト教に改宗したユダヤ人共同体の中でまとめられたため、ユダヤ教の流れをくむ用語や表現が多く用いられているのが特徴です。

 

 マルコ福音書

     福音書の中では最も古く、紀元70年代に成立し、著者は「マルコと呼ばれるヨハネ」(使徒言行録12・12)とされますが、詳しいことは不明です。当時残されていた様々な口伝による資料を著者が編集してまとめたとされ、四福音書の中で最も簡潔にまとめられています。

 

 ルカ福音書 

      パウロの同行者で医者であったルカ(コロサイ4・14)が著者とされます。「テオフィ口」という人物に献呈された二つの文書の前編で、後編は「使徒言行録」と呼ばれています。イエスの誕生や復活にまつわる箇所では、他の福音書にはない独自の資料に基づく内容が収められています。

 

ヨハネ福音書

    イエス十二使徒の一人ヨハネが著者とされてきましたが、実際の著者は不明です。紀元90年代のパレスティナまたはシリアで成立したとされます。他の三福音書にはない記述が多く、こちらも独自に入手した伝承に基づいて編集されたと考えられています。イエスが誰であるのかを明らかにしようとする意図があるのも大きな特徴です。

  宮越俊光著 『早わかりキリスト教』(日本実業出版社、2005年)参照。

***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の提供。

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「知ってるつもりキリスト教」③ 福音書とは?

  キリスト教の中心人物は、言うまでもなくイエス・キリストです。イエスについて知り、その生き様を学ぶために、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの名を冠した福音書を読むことは第一歩となります。これらの四つの福音書は、イエスの生涯について知るために最も重要な記録です。しかし、イエスの伝記でも福音書を書いた人が出来事を「生中継」したものではありません。 

  福音書は、イエスによってもたらされた救いについての良い知らせです。この良い知らせは、生前のイエスの言葉と行いによって告げられました。イエスの死後、口伝によって受け継がれ、それが後に文書として書き留められて、現在あるような福音書としてまとめられたのです。

   そして、この文書をまとめる作業にあたった人物を「福音記者」と呼びます。四人の名前がそれぞれ福音書に付けられていますが、実際の著者が誰であるかは定かではありません。最古の福音書はマルコ福音書で、マタイとルカの両福音書は、マルコ福音書と今は現存しない聖書学ではQ資料と呼ばれるイエスの語録集を用いて書かれたとされます。これら三福音書は内容が関連しているので「共観福音書」と呼ばれており、ヨハネ福音書は「共観福音書」とは違った視点で書かれているのです。

 宮越俊光著 『早わかりキリスト教』(日本実業出版社、2005年)参照

***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の提供

 

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「知ってるつもりキリスト教」②  聖書:信仰の書   

 

    キリスト教徒にとって、聖書は神の言葉であり、何よりも大切な信仰の規範です。そして、歴史を忠実に書き記すという意図で書かれた記録ではありません。聖書を読む時にまず念頭に置くべきことは、聖書は信仰者の立場で書かれた「信仰の書」だという点です。もちろん、歴史的な記述の中には史実と重なることも含まれています。

   しかし、聖書はそうした歴史的事実を伝えることを第一の目的とした書物ではありません。聖書は、唯一の神に対する信仰を持った人々が、いわば信仰告白のようなものとして著したものと言えます。つまり、何よりも信仰が前提となって書かれたものなのです。このことを忘れてしまうと、聖書の不思議な記述から、単なるおとぎ話や神話のように受け取られてしまうのです。聖書は、神との関係をはじめ、人間の生と死、心の働き、罪と悪の謎を解明しようという意図で編集されています。天地の構造を説明するのではなく、天国への道を示しているのです。

 宮越俊光著 『早わかりキリスト教』(日本実業出版社、2005年)参照

 ***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の提供です。

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「知ってるつもりキリスト教」①  聖書:古くて新しい本

    聖書は、見た目は一冊の厚い本ですが、複数の書物がまとめられたものです。当然、一晩で書かれたものではありません。原文では「βιβλία」「諸書」という意味で、ユダヤ教キリスト教聖典です。聖書を読むつもりなら、一番初めの『創世記』からではなく、興味のあるところや調べたいところから読むのをおすすめします。キリストについて学びたいのなら、まず福音書から読んでみると良いでしょう。  

   複数の著者によって紀元前2000年から紀元90年の間に書かれ、イスラエルパレスティナ、そしてエジプトなどのごく限られた地域が舞台となっています。そのため、聖書には時代的にも地理的にも限定的であることを認めなければいけません。ただ、人間の生と死、罪、宇宙の成り立ちなど、どの時代の人でも一度は真剣に考えるようなことを、当時の人なりに信仰に基づいて考察し、後世に伝えるために記しているのです。

    そこで、聖書に書かれた内容の不思議さに目を奪われるのではなく、その不思議な記述を通して著者は何を伝えようとしているのかを読み取る必要があります。そうした時に、はるか昔に書かれたものであっても、現代のわたしたちの心に何か訴えてくるものを感じ取ることができるのではないでしょうか。

宮越俊光著『早わかりキリスト教』(日本実業出版社、2005年)参照

***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の提供です。

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