イエスに出会った人々⑩ マグダラのマリア(ヨハネ20章11~15節)

お手持ちの聖書で該当箇所を読んでいただくか、

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    マグダラのマリアは、墓の外に立って泣いていました。彼女はイエスの死によって将来への希望を失い、嘆いていました。福音書に書かれている「置く」という表現は、「埋葬する」や「納める」、そして「大切にする」という意味があります。ここでは、マグダラのマリアが亡くなったイエスの思い出を心に残すということであり、過去についての表現となります。

     しかし原文では、同じ動詞であるにもかかわらず、別の意味で使われています。例えば、ヨハネ福音書10章には、「わたしは良い羊飼いである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。」と書かれています。「捨てる」とは、将来に向かってこれから行われることを示し、未来へ向けた表現となるのです。

      イエスは命を置きました。マグダラのマリアは、自分のこれまでの人生をイエスのもとに置きました。復活したイエスに出会うことによって、マリアは過去にしがみついた生き方から、未来へ向けて力強く歩き始めます。私たちも過去から未来へと向きを変えて生きるように、復活したイエスによって促されているのです。

 ***写真とことばはロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の提供です。 

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イエスに出会った人々⑨ 姦通の現場で捕らえられた女性(ヨハネ8章1-10節)

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    捕まえられた女性は、被告人として真ん中に立たされました。律法で定められているため、彼女は投げられる石の的となるのです。一方、律法に基づいて石を投げようとした告発者たちは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」というイエスの言葉によって、何もせずにその場を去って行ったのです。

    「真ん中」とは、平等が与えられた場所で、互いの存在が認められ、他者と触れあう機会になります。姦通を犯した女性は、自分の目の高さに合わせ、イエスから「婦人よ」と声をかけられたことにより、人間としての尊厳を与えられ、認めてもらいました。「あなたを罪に定めない」というイエスの宣言を、彼女はどのように受け取ったのでしょうか。「あなたの死を望まない」や「生きなさい」という読み方もあれば、「新たな人生を歩みなさい」とも解釈できるでしょう。彼女の心情はどうだったのでしょうか。もう一度真ん中に立ってもらい、話を聞きたいものです。

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イエスに出会った人々⑧ 盲人(マルコ10章46~53節)

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   道端に座って物乞いをしている盲人がいました。彼の生活は、他者の寛容な心と施しによって成り立っていました。大勢の人が毎日道を歩いていましたが、盲人はその声と足音しか分からなかったのです。自分の周りの非常に狭い範囲でのみ行き来する人とつながっていたため、盲人は広い世界を知りませんでした。彼は知らない世界を見たい、すなわち人生の物乞いでもありました。ある日、イエスが来ているという騒ぎを耳にした彼は、イエスのところに行き、「見えるようになりたい」と切に願ったのです。

     聖書に描かれている「目」や「見る」という表現は、単なる視力を表しているわけではありません。人生の途上で、私たちは落ち込んだり、孤独を感じたり、他者から理解してもらえなかったりします。人間である限り、誰もがする経験です。将来が暗く、先が見えない時、そして何を支えに生きていけばよいのか分からない時、私たちは闇の中にいると言えます。信仰はこんな状況に置かれている私たちを支え、導いてくれます。信仰の目で人生を見つめることで、人生に光がさします。信仰を持つ人は、そのまなざしに基づいて生きていくのてす。

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イエスに出会った人々⑦ ベタニアのマリア(ヨハネ12章1-11節)

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      イエスに対するベタニアのマリアの行いは、ユダほどではなくても、私たちを戸惑わせるものです。私たちは打算的な考え方を持ち、自分本位な生き方をし、物事を自己中心的にしか考えないからです。しかし、愛の理屈や精神は、他者中心で働いています。マリアの純粋な愛の行為は、ユダの私利私欲の考えとは雲泥の差です。マリアの無償の愛の行いは、母親が子を抱くように、そして家族を看病する時のように、細心の注意を払った密度の高い体験なのです。

      愛の香りに触れた人は、貧しい人々への関心を必ず持ち、手を差し伸べることになるでしょう。愛は目には見えませんが、愛し愛されることを体験した人が、その愛を目で見えるようにするのです。マリアはまさにそのような行為をしています。私たちは他者に仕える時、その行いから愛の香りが放たれ、周囲はその香りで満たされます。私利私欲の世界に、無償の愛の香りを漂わせませんか。

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イエスに出会った人々 ⑥ ベトサイダの病人 (ヨハネ5章1-10節)

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       イエスからの「良くなりたいか」という質問は、余計なことばとして聞こえるかもしれません。5つの回廊には、病気の人や目の見えない人、足の不自由な人などが大勢集まっていました。中には、38年も病気にかかっている人もいたのです。

   「主よ、水が動く時、私を池の中に入れてくれる人がいないのです。私が行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」という表現から、病気の人の間でも弱肉強食の世界が存在しているのだと分かります。彼は孤独な存在で、しかも自分の境遇を嘆いており、病気を治したい気持ちをあきらめているように感じます。イエスに質問されることによって、この人は大勢の群衆の中で初めて助けを必要としている人間としてみなされ、彼の存在は認められていくのです。

    現代では、対人関係をうまく築くことができず、群衆に対する恐怖感を抱えている人が多いようです。さまざまな不自由さに横たわっている人々に人生の生きがいや希望を与えるために、まずその状況に置かれている兄弟姉妹の存在に心をかけましょう。

 ***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の撮影です。 

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イエスに出会った人々 ⑤ ザアカイ(ルカ19章1-10節)

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      ザアカイは背が低かったので木に登りました。すると、新しい世界が見えてきました。実際は同じ世界ですが、新しい視点から見たために全く違ったものに見えたのです。ザアカイが見たのは、まさにその世界です。彼の仕事は、ローマ帝国の徴税人でした。自分の利益のために税金を多く集める傾向があったため、人々から嫌われ、また宗教的に罪人(つみびと)と見なされていました。そんな彼が勇気を出し、皆の前で木に登るという奇妙な行動をとりました。すると、突然新しい出会いに招かれ、ザアカイにとって思いがけない第二の人生の始まりに応えていくようになるのです。

     「今日はぜひあなたの家に泊まりたい」とイエスに話しかけられると、ザアカイは取り乱すのではなく、急いで降りてきて、喜んでイエスを受け入れました。生気に満ちた動的な応えではないでしょうか。ここでの「急ぐ」という表現は加速のことではなく、いのちの鼓動です。イエスからの呼びかけは、警告や命令でもなく、福音すなわち良い知らせでした。そのため、彼の喜びが溢れたのです。

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イエスに出会った人々 ④ ペトロ (ルカ福音5章1−11節)

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   イエスが自分の舟を選んだので、おそらく、ペトロは心が弾んでいたことでしょう。けれども、この後、その気持ちは一変してしまうのです。イエスから船を沖に出すようにと頼まれたものの、夜通し魚をとろうと苦労したが、何もとれなかったというペトロの答えから、イエスのことばに疑いを持っていると推測することが出来ます。

    イエスに対するペトロの信頼が揺らぐ難しい瞬間ですが、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」というペトロの応答から、危険と恐れを越えて、イエスの言葉を信頼しようと心に決めた瞬間であることがわかるのです。

    勇気ある決断を必要とする時、利害の範囲を超えて、自分に賭けてみるという経験をしたことはないでしょうか。私たちは、他者を信頼して身を任せるという少しばかりの冒険を通して鍛えられていくのです。この体験から信頼が芽生え、個人的な関係から社会までもが築かれていくのです。

 ***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の撮影です。 

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