秋ファッションと四季のキリスト服 

   今年の秋のファッションは何でしょうか。去年とは違い、また翌年とも違うものでしょう。毎年、季節ごとに靴・洋服・アクセサリーなどが発表され、男性・女性・子どもそれぞれを対象としたものなのです。

    洗礼式の中で、受洗者は「キリストを着る者になりなさい」と言われて、白衣を与えられます。それは、時代や季節によって変わる服でもファッションでもないのです。キリスト教では洗礼を受けることによって、キリストを着る者になります。すでに洗礼を受けた方たちは、キリストとその生き方、つまり他者に仕えるということに基づいて、キリスト中心の生活を送っています。

    私たちが着るキリストは、人生の全ての季節にあったものです。そして、それをまとう人は、人生の季節を巡り、成長していくのです。季節によって変わるのではなく、四季を通して一生身にまとって過ごしましょう。

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人と人とが支え合う『人』 (創世記2章18~23節)

朗読箇所は Laudate | 教会カレンダー

   創世記2章20節には、「人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。」という箇所があります。

    みなさんは、「これは私のものです」と主張するために、靴や服、傘、バッグなどに、自分の名前を書いたことがあると思います。神は、創られたすべてのものを、人間の手に託されました。確かに人間は、被造物の中で、卓越した優れた存在です。しかし、支配者としてエデンの園に置かれても、人間は一人では孤独を感じたのです。従って、平等であることと男と同じ尊厳を持つことを条件に、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と神はおっしゃり、人間からもう一人の人間を作られました(21節)。

   『人』という漢字は「人と人とが支え合う」という意味を表しています。これは信仰にも当てはまります。キリスト教で、共同体は大切なところです。言い換えれば「キリスト者は一人で信仰するのはよくない」のです。なぜなら共同体は信仰における家族で、そのメンバーが互いに支え合い、共にキリスト教の価値観に基づいて生き、具体的に行動しているからです。

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年を取るということ

   秋は、実り多い収穫の季節です。人生の秋もそうです。先日、偶然雑誌でマザー・テレサの写真を見つけ、じっくり眺めました。カトリックのシスターでありながら、ヒンドゥー教の国・インドで、路上でみじめな死に直面している人々を、心をこめて世話をした彼女の姿が浮かんできました。写真の顔は確かにしわだらけでしたが、生き生きと輝いた目をしていました。

   10年前、90歳で帰天した私の祖母の目はブルーでした。亡くなる一年前、病気が原因で一晩で見えなくなりました。しかし、祖母の目は、信じられないほど鮮やかなままでした。マザー・テレサも祖母も美しいと思います。美は外から身につけるものでなく、老いてもなお、内側から豊かににじみ出て来るものだと教えられた気がします。

   聖書の知恵に「白髪になってもなお実を結び、命に溢れ、いきいきとしている。」(詩編92・15)という表現があるように、年を取ることは、心の中にある美を映し出すという、一生をかけた人生の作業なのです。

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いのちに関する先進国の行方 (マルコ9章30~37節)

福音朗読先 ー> Laudate | 教会カレンダー

    携帯電話とインターネットの普及により、機械的な絆は効率的になり、強くなりました。その一方で、人間的な絆はむしろ弱くなってきたという現実があります。また、結婚したくない若者や結婚しても子どもを産みたくないという夫婦も増え、離婚の割合も著しく上昇してきました。これからは、人間社会がますます孤立化していくのではないかと懸念しています。

    実を言うと、私の出身であるイタリアでも、日本と並んで少子化が深刻な社会問題となっています。「実のなる木は花から知れる」と言うことわざがあります。「命の扱い方によって社会が分かる」と言い換えるなら、先進国であるイタリアと日本は、人間的な絆が薄れ、命を尊ぶことから遠ざかっているのではないかと感じます。機械文明においては進歩している一方、人間性と命の文明においては、逆行していることが気になって仕方ありません。新しい命を迎えることに対して、自己制限することになっている社会が、文明社会と言えるでしょうか。矛盾しているとしか思えません。

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信仰の運動会  (マルコ8章27~35節)

福音朗読 =>Laudate | 教会カレンダー

   信仰の運動会は、一位・二位などと順位を決めるものではありません。どれだけ時間をかけてもかまいません。誰でも必ず勝者になれます。しかし、勘違いしてはいけません。人と競争することではなく、「心を尽くして最後まで」という自分自身の中で一生続く競走なのです。

    私たちにとって、毎日の生活が運動会です。それぞれが受けた洗礼は、スタートに過ぎません。どんな感動的なものであっても、信仰の人生において、それは一瞬の出来事です。信仰の運動会は、スタート(洗礼)から最後(人生の終り)までという一生の競走です。途中、熱情にかられて全力で走ることもあるでしょう。疲れた時は歩き、時には逃げ出したくなることもあるでしょう。  

  しかし、大切なことは競走を諦めずに続けることです。他の選手を追いこして先にゴールすることではなく、ゆっくりでもイエス様に離れずに従うことなのです。

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律法は命を得るためにある (申命記4章1~2、6~8節)

聖書朗読は Laudate | 教会カレンダー

   本日の聖書朗読箇所で、律法において注目すべき点が二つあります。一つ目は、律法に従う目的です。律法に従うことで、命を得ることができると教えています(1-2節)。二つ目は、律法に従うことで、周囲から高く評価される点です(6-7節。 

   しかし、律法は私たちを脅迫するというイメージを持ち、罰則と組み合わせて考えがちです。掟を守らなければ、罰を受けるという恐ろしい考えが、キリスト教を信仰する人々の間に広まっている気がします。また、一般の人からは「真面目でなければ信者になれない」や「カトリックは厳しい」、また「信者になれば先祖を捨てなければならない」という誤解や先入観を耳にします。

    使徒パウロは「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい」という判断の基準を示しています(フィリピ4・8)。つまり、その土地に根付いている文化や伝統を尊重しながら、キリスト者であってほしいのです。

 

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