つまずきながらも (ヨハネ6章60~69節)

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー

   私たちは、自分の願いを全て叶えてくれるイエス様が最も好きかもしれません。しかし、今日の福音箇所での「ひどい話をするイエス様」はいかがでしょうか。66節に「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」とありますが、「このため」とは、命のパンの話をはじめ、イエス様がこれまで説いてきた福音を聞いて「つまずいたため」という意味なのです。

    そもそも「つまずく」ということは、通常の歩行がある物によって妨げられるという物理的な意味です。更に、非常識な考えや物事が原因で「つまずく」すなわち「挫折する」という精神的な意味も持ち合わせています。

    イエス様の福音のメッセージに「つまずかない」キリスト者はいないはずです。なぜなら、福音の精神と実践は、私たちの常識を超えたものだからです。キリスト者にとっては、イエス様の呼びかけに応えて生きて行くという重大な決断を表します。しかし、それは一回限りの選択ではありません。私たちは人生を生きる上で、出会いや経験といった出来事を通して、イエス様に従うか離れるかという決断を頻繁に更新しているのです。

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平和を実現する人は幸い~今こそ武力によらない平和を

 戦後70年カトリック司教団メッセージ

キリストにおける兄弟姉妹、ならびに平和を願うすべての方々へ

 日本カトリック司教団はこれまで、1995年に『平和への決意 戦後五十年にあたって』、また2005年には『「非暴力による平和への道」~今こそ預言者としての役割を』というメッセージを発表してきました。戦後70年を迎える今年、ここに改めて平和への決意を表明することにいたします。

 1. 教会は人間のいのちと尊厳に関する問題に沈黙できない

 カトリック教会にとって今年は、1962年から1965年にかけて行われた第二バチカン公会議の閉幕から50年という記念すべき年にもあたります。二十世紀の前半、ヨーロッパを中心としたキリスト教会は、二つの世界大戦やナチスドイツによるユダヤ人の大量虐殺などを経験しました。これらの悲劇の反省から教会は、いわゆる宗教的な領域に閉じこもるのではなく、人類の問題を自分の問題として受け止めなければならないと自覚するようになりました。第二バチカン公会議の終わりに発表された『現代世界憲章』の冒頭には、その自覚が次のような文章ではっきりと示されています。  「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある。真に人間的なことがらで、キリストの弟子たちの心に響かないものは何もない」。  第二バチカン公会議後のカトリック教会は、フランシスコ現教皇にいたるまで、人間のいのちと尊厳の問題、とくに抑圧された人や排除された人の問題に真剣に、積極的に向き合おうとしています。

 続き=> http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/150225_wwii70yr.htm

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人生の夏バテ (列王記上 19章4~8節)

朗読箇所は => Laudate | 教会カレンダー

   エリヤは聖書の有名な人物であり預言者の代表です。彼は奇跡を行い、パンも増やしました(列王記上17章参照)。しかし、本日の朗読箇所に出て来るエリヤには、まるで別人のような強い印象を受けるのではないでしょうか。この偉大な人物は、自分の命が絶えるのを願ったほど、人生のどん底にいると感じ、「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」と宣言したのです。

     誰にでもエリヤのような経験があると思います。私たちも何らかの原因で、落ち込んでしまうことがあるのではないでしょうか。問題ない時もあるし、力が出ない時もあります。ある物事に熱中する時もあれば、疲労困ばい状態の時もあるでしょう。夏バテのため、やる気が出ず食欲も無くなるように、人生にも夏バテがあります。「もう駄目だ」と生きることが嫌になるほど絶望を感じるのは、人間である以上誰もが通る人生の波の1つなのです。

   ここで、フランスの哲学者ブレーズ・パスカル*の言葉を紹介したいと思います。「人間の偉大さは、人間が自分の惨めなことを知っているからだ。樹木は自分の惨めなことを知らない。」

 *1623年~1662年。フランスの哲学者・数学者・物理学者。大気圧・液体圧や円錐曲線論。著書は『パンセ』(1670) など。台風のヘクトパスカルという単位は、パスカルから由来する。

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人間として生きるための糧 (ヨハネ6章24~35節)

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   パンや米といった食糧があると、私たちは生きることができますが、植物や動物と違い、それだけでは人間として生きることができません。私たちにとって毎日必要で欠かせないものは、身体を養う食べ物と霊的な糧です。人間として成長するために、どちらも欠くことのできないものなのです。

   糧は、人生の意味を与えてくれる食べ物になります。聖書でよく目にするパンは、食べ物だけではなく、健康や住まい、仕事などを象徴しています。更に、この世に生まれてきた一人の人間としての尊厳も養い、育むことが大切です。生きていくために、体の栄養分となる糧は必要なものですが、私たちはそれだけで満たされるとは言えません。私たちは人生において価値を見出すことができるもの、すなわち生きる喜びや生きがいを求めているからです。

    人間としての尊厳を保つために、体の糧と心の糧がどちらも必要です。私たちはそのどちらにも養われているからです。

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分かち合いの奇跡(ヨハネ6章1~15節)

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    イエス様は大勢の人々の世話をしようとお考えになり、弟子たちにその心づもりを伝えました。するとフィリポは、「この人たちに食べさせるには、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう。ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」と答えました。おそらく、フィリポは大勢の人々を世話するのが面倒なので、集まっている人々を解散させた方が良いと考え、その気持ちをイエス様に伝えたのかもしれません。

   しかし、少年の気持ちは違っていました。自分の食べ物、日本風に言えば、おにぎり五個と焼き魚二匹をすぐに提供しました。実は大人たちもお弁当を持っていましたが、あくまでも自分のためで、他人と分けるという考えは頭の中に全くありませんでした。自分の都合しか考えていない男たちは、黙ったままその場にいたのです。

   ここで、奇跡的な転換が起こります。お弁当を出した少年を見た大人たちは、自分たちの卑しさに恥ずかしくなり、相次いで自分の食べ物を出し始めたのです。分かち合いが行われたことで、皆は満腹になるまで食べることができました。分かち合いは、分けることによって何倍にもなるのです。

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深く憐れむこと (マルコ 6章30~34節)

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   今日の福音箇所は、イエス様をレントゲン撮影したようなものです。この写真から、イエス様の内面を観察することができます。イエス様の「深く憐れむ」(34節)という言葉に注目してみましょう。「深く憐れむ」とは、見て見ぬふりをすることでも、口先で「かわいそう」と言うことでもありません。これは、内側の視点から他者を見て、憐れむことを意味しています。つまり、「目」で見るのではなく、腹の底から同情を感じて、行動へとつなげる見方なのです。

    聖書の世界における「憐れみ」は、ヘブライ語で「母胎」や「子宮」を指します。イザヤ書49章15節には、「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようともわたしがあなたを忘れることは決してない」と書かれています。この言葉から、イエス様の「深く憐れむ」とは、神による母性的な無条件の愛を表しているのではないでしょうか。

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人生という旅     マルコ6章7~13節)

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   みなさんが旅に出る時、まず準備することから始めるはずです。ただ、持って行くことができる荷物が限られるため、準備の中で最も難しいことは、持ち物を選択することでしょう。例えば、現金かクレジットカードか、サンダルかパンプスかスニーカーか、フォーマル・ウェアかカジュアル・ウェアかなど、悩みは尽きないと思います。登山の場合は、もっと複雑になります。なぜなら入念な準備だけではなく、登り始めると、ペース配分に配慮しなければならないからです。

    登山には、二つの姿勢が必要です。目の前にそびえる山の頂上を見ることと、足もとを見ることです。頂上を見つめるだけでは、どこへも行くことができませんし、足もとを見ずに踏み出すと、崖の下に落ちる危険性もあるからです。反対に、足もとしか見ずに進むと、目的地にたどり着くことができません。ですから、登山の際には、この二つのバランスをとることが基本となります。

    同じように、人生の旅のために、安定した職住などといったすべてが整っていたとしても、安全だとは言えません。人生の道を歩みながら、その二つの姿勢を維持し、遭遇する出来事に適応することも大切なのです。

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