教会一致推進運動(エキユメニズム運動)

   2000年に及ぶキリスト教の歴史の中には、不幸な出来事がいくつか生じており、その一つにキリスト教内部の分裂や対立があります。キリスト教徒はキリストを主と宣言し、キリストに対する信仰を保ち、同じ聖書を信仰のよりどころとしているはずなのに、現状は非常に多くの教派に分かれてしまっているのです。

    21世紀になって、教会はようやく対立ではなく対話の精神で各教派が互いを理解し、一致を実現しようとする道を歩み始めました。この動きをエキュメニズム運動(教会一致推進運動)と呼んでいます。特に、1948年に成立した世界教会協議会(WCC)や第ニバチカン公会議(1962-65年)などが、各教派の一致への歩みを推進する力となってきました。 

  現在のエキュメニズム運動の根底にある精神は、「対話」です。かつては互いに排斥し合っていた時代もありましたが、現在はそれぞれの教派がお互いの立場を尊重し、同じ主キリストを信じる者として交流しようと努めています。たとえば、毎年1月18日から25日を「キリスト教一致祈祷週問」として、各教派が一致のためにともに祈りをささげることにしています。また、共同で聖書を翻訳したり共同で使える讃美歌を作成したりするなど、具体的な形でも一致への道が少しずつ整えられているのです。

 

写真解説 ー 去年10月31日 

教皇の訪問は、スウェーデン政府とルター派世界連盟の招きに応えたもので、マルチン・ルターの宗教改革から500年を記念するエキュメニカルな行事に出席することを目的としている。教皇の訪問は、スウェーデン政府とルター派世界連盟の招きに応えたもので、マルチン・ルターの宗教改革から500年を記念するエキュメニカルな行事に出席することを目的としている。」(当日のラジオバチカンから)

f:id:nipponblog:20170120194304j:plain

 

証しする

福音朗読は  http://www.pauline.or.jp/calendariocappel…/…/a_ord02sun.php…  

   日本語では「証しする」という言葉は、「証言する・証人となる」と意味です。それは、単に言葉で自分の考えを述べるということではありません。ある事件の証人とは、その出来事を確かに見たり経験したりした人を意味します。自分が「見たこと・経験したことを語る」のが「証言する」ということなのです。洗礼者ヨハネは、何らかの仕方で神から「後から来られる方」を示されたからこそ、その方について証言したのでしょう。

   「わたしはこのような体験の中でイエス様を知った。イエス様の愛を感じた」というような言葉には力があります。しかし、最も力強いのは、イエスと出会って人が変えられた(救われた)ということが、その人の生き方の中に表れるときではないでしょうか。

   教会の「殉教者」という言葉の原語は、元々「証しする人」の意味でした。殉教者とは、言葉よりもその生涯と死を通して、キリストを証しした人々なのです。キリスト教は、難しい神学ではなく、言葉と生き方による「証し」によって受け継がれてきた、と言っても過言ではありません。私たちにとってイエス様を証しするとはどういうことでしょうか。                                                                    「福音のヒント」より

f:id:nipponblog:20170114053406j:plain

 

無償の行い 

福音朗読は http://www.pauline.or.jp/calendariocapp…/cycle0/epifania.php

  

   多くの人々が自分の宝箱や財布を開いて、博士たちの没(もつ)薬や黄金、乳香の代わりに、贈り物としてお金を捧げます。3週間の年末年始の期間に行われる、歳末助け合いやチャリティーコンサートなどで行われる寄付です。...

 私たちは、クリスマスの季節だけではなく、日々、善行を行っています。これは、隣人愛に当たります。身近な例で言うと、親子の愛や夫婦間の愛、また友情の愛や博愛などがあります。献身的な介護や看病などもそこに含まれます。


   しかし、これらはどれだけ純粋で無償の行いなのでしょうか。もしかしたら、美しく化粧を施した心で周囲を欺き、見返りを求める行為なのかもしれません。では、どうすれば純粋で無償であることが分かるのでしょうか。自分自身でその行為の動機を見極めることによって、その原動力と動機も分かるようになるのです。

   例を挙げてみましょう。仕事帰りにバスに乗っていると、お年寄りの方が乗ってきました。私は一瞬「席を譲るのは嫌だ」と思い、眠ったふりをしようとしました。しかし、その気持ちに負けずに立ち上がり、席を譲りました。これは隣人愛だと言えます。なぜなら、自分の感情を超えて、相手のことを優先したからです。

f:id:nipponblog:20170107215457j:plain

 

念願の特別な叶え方

   お正月に、健康増進・家内安全・商売繁盛・満願成就などを願い求め、深夜から神社やお寺に初詣へ出かける人は多いですが、次のかなえ方に満足ができる人はまだ多いでしょうか。

 

   大事を成そうとして力を与えてほしいと神に求めたのに、

慎み深く従順であるようにと弱さを授かった。

より偉大なことができるようにと健康を求めたのに、

より良き事ができるようにと病弱を与えられた。

幸せになろうとして富を求めたのに、

賢明であるようにと貧困を授かった。

世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、

神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。

   人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、

あらゆることを喜べるようにと生命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、

願いはすべて聞き届けられた。

神の意にそわぬものであるにもかかわらず、

心の中を言い表せない祈りはすべてかなえられた。

私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ。

   この詩は「病者の祈り」のタイトルでよく知られ、ニューヨーク大学リハビリテーション研究所の壁に刻まれている無名一患者の作。

f:id:nipponblog:20161231162150j:plain

 

クリスマスはあなたです!(クリスマスと私たち 5)

クリスマスはあなたです、毎日、新たに生まれかわると決心して、魂を神に開くとき。

クリスマスツリーはあなたです、人生の強風と困難に強く耐えているとき。

クリスマスの飾りはあなたです、あなたの人徳が人生を彩るとき。

クリスマスの鐘はあなたです、人々を呼び集め、一つにしようとするとき。

    クリスマスの光もあなたです、あなたの人生が人々の歩みを照らし、

あなたの優しさと忍耐、喜びと寛大さが輝くとき。

クリスマスの天使はあなたです、世界にむけて平和と正義と愛のメッセージを

歌うとき。

クリスマスの星はあなたです、誰かを主なる神にまで導くとき。

東方の賢者もあなたです、相手が誰か気にせずに自分の宝を与えるとき。

クリスマスの音楽はあなたです、自分の中に調和を勝ち得たとき。 

    クリスマスのプレゼントはあなたです、すべての人の真実の友となり兄弟と

なるとき。

クリスマスカードはあなたです、あなたの手に愛が書き記されているとき。

クリスマスの挨拶はあなたです、自分が苦しむときさえも、

相手を許し、平和を呼び戻すとき。

クリスマスのディナーはあなたです、側にいる貧しい人をパンと希望で満たすとき。    

    あなたはそう、クリスマスの聖なる夜です。

夜の静けさの中で、騒がずに世界の救い主を謙虚に受け入れるとき、

あなたは愛と希望のほほえみとなり、内なる平和によって朽ちることのないクリスマスがあなたの中に天の国を芽生えさせるのです。

 

   クリスマスに似ているすべての人に、喜び溢れるクリスマスを祝うことが出来ますように。

                                                          (教皇フランシスコによるクリスマスメッセージ)

f:id:nipponblog:20161225062303j:plain

 

注意深さの天使 (クリスマスと私たち 4)

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー

   注意深さは『重んじる、顧慮する、尊敬する、思いやりを持って何かを行う』という言葉からきています。それは、目を覚ますということと関係しています。注意深く呼吸する人、注意深く足を運ぶ人、注意深くスプーンを手に取る人、いま行っていることに集中している人は目覚めています。

    私たちの多くは眠りながら生きていると言われています。その人たちは何をしているのかまったく気づいていません。自分自身の人生を幻想にしてしまっています。そして、現実の人生とは何らか触れ合っていないのです。注意深さはとは私たちに事柄や人間と実際に触れ合うことをもたらします。

   黙想とは、今自分がしていることを単純に重んじるということです。そうすると、注意深さは、私たちの人生に新しいスパイスを与える霊的な力であることに気がつきます。注意深さの天使は私たちに何度も何度も触れ、眠りから目覚めさせ、今この瞬間に自分が存在していること、今行っていることを丁寧に行うことに気づかせてくれます。しかし、注意深さを身につけることは簡単にはできません。日々鍛錬しなければなりません。

              A.・グリユーン、「50の天使。1年の歩みのために」

                 キリスト新聞社、2007、152~54項からの抜粋

f:id:nipponblog:20161216180710j:plain

 

 

慰めの天使 (クリスマスと私たち 3)

朗読箇所は Laudate | 教会カレンダー   

   「聖書のギリシア語の『慰める』は、その意味が、こちらに呼び寄せる、招待する、助けを求める、元気づける、よい言葉で話しかける、ということです。喪失経験に苦しむ人は、その人の傍らに立ち、必要であるならその人を助け、ふさわしい言葉で語りかける天使を必要とします。

    慰めることは、その人に話しかけることであり、その人の心に届く言葉を語る慰めること、まさにその人に働きかける言葉を語ることです。慰めるとは、心からに伝わる言葉、私の心から出る言葉を語ることです。それは、リアリティーのない型にはまった言葉ではなく、聞く人の心で花を咲かせることばです。そして、新しい視野を開き、その人がしっかり立つことができる拠り所を与えるのです。  

   慰めるとは、自分自身に閉じこもっている人、困難がその人の口も心も閉ざしてしまった人と共にいるということです。人と共にいるということは、その人の痛みを分かち合い、その人に寄り添い、その人の痛みの中に留まるということです。その人の暗闇、葛藤、苦しみという家に留まり、そこにじっとしている必要があります。」 

             A.・グリユーン、「50の天使。1年の歩みのために」、

                 キリスト新聞社、2007、180~83項からの抜粋

f:id:nipponblog:20161209174810j:plain