イエスの見方 

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー  (マタイ13章24-30節)

   今日の福音書には、収穫の場面が描かれており、畑によい麦と毒麦が登場しています。ここで、私たち人間の世界に目をむけてみましょう。仕事を効率良くこなす人とそうでない人や、健康な人と病人というように、私たちは表面的で対照的なレッテルを安易に貼ってしまいがちです。このような分け方によって、私たちの他人に対する見方が成り立っているのではないでしょうか。

    しかし、イエス様の見方は違います。例えば、芸術家は重く固い大理石から気高い彫刻を彫ります。また、何も描かれていない一枚の紙に、美しい絵を描き出すでしょう。同様に、イエス様は一人一人の奥の奥まで見抜き、どのような過去を持っていても、また偉くても目立たなくても才能がなくても、未来を見つめながら傑作を生み出させてくださるのです。これによって、イエス様を信じることの素晴らしさが分かります。愛や希望、そして信頼をもたらす豊かな創造力のある信仰心です。これによって、キリスト教に特有の人間観が作り上げられているのです。

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人生の土壌に蒔く

福音箇所は Laudate | 教会カレンダー マタイ13章1-9節)

 

   価値のある人生や実り豊かな人生とは、成功や名誉などを手に入れることではありません。価値のある人生とは、自分の道を歩みながら成長し続けることです。人生は土壌のようなもので、様々な出来事が種として蒔かれています。嬉しい時もあれば、辛い時もあり、思いがけない出来事もあれば、待ちに待った出会いもあることでしょう。これまで経験してきたすべてから逃げたり、その出来事に縛られたりすることなく、 それらをどのように受け入れ、どのように応えるのかが大事です。それによって、皆さんがどれくらい円熟した人格であるのかが分るのです。

    皆さんは、今までどんな土壌に落ちてきたでしょうか。どのようにしてその環境に応えてきたでしょうか。言い換えれば、どんな出会いに巡り合ってきたでしょうか。その出会いによってどれほど成長し、実を結んできたでしょうか。

    そして、自身は他者の土壌に種を蒔く人となりましょう。単に蒔くのではなく、豊かに蒔きましょう。丁寧な言葉遣いやためになる助言、寄り添う存在や配慮などの種を惜しみなく蒔くこととなるのです。

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「人生に気をつけて」

福音朗読は Laudate | 教会カレンダー (マタイ11章25~30節)

   「体に気をつけて」という表現はよく使われていますが、「人生に気をつけて」とはおそらく聞いたことがないでしょう。しかし、人生には山があり谷があり、また波風も立つのです。熱心に物事に取り組む時期もあれば、疲れきってしまう時もあるでしょう。元気なときもあれば、力のないときもあります。それは、人生が日常の暮らしの中で展開しているからです。従って、「人生に気をつけて」というのは、人生における谷間や波に注意し、その状況に応えるようにということです。例えば、休息は必要です。時には体と心、そして人生に休息と余裕を与えましょう。

    人生の旅の途上で、私たちは複雑な人間関係に疲れているかもしれません。理解してもらえることが少ない反面、誤解されることは多く、傷ついて疲れています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(28節)。これは、イエス様からの暑中見舞です。忙しい日常生活と複雑な人間関係に疲れている私たちは、この機会にイエス様のもとで休んでみるのはどうでしょうか。

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一杯の冷たい水 

福音箇所 Laudate | 教会カレンダー(マタイ10章37~42節)

   

   暑い季節に、頼まれなくても自ら進んで冷たい水を一杯飲ませてあげることはごく普通のことであり、大したことではありません。しかし、イエス様にふさわしい弟子、つまりキリスト者としてふさわしい行いをすることは難しいです。なぜなら、それはイエス様に祈ることではなく、イエス様のようにふるまうことを意味するからです。そして、イエス様のようにふるまい、他者を気遣おうとする心構えは、冷たい水一杯を通して表されるのです。

    ミケランジェロによって描かれた名画『最後の審判』には、生前、困っている他者に対して行ったあるいは怠ったことを通して裁かれた人々が描かれています。どのようにして裁かれているのでしょうか。イエス様は、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にした(しなかった)のは、わたしにしてくれた(くれなかった)ことなのである。」と宣言なさいます。喉が乾いている人がいれば、冷たい水一杯でも大したことになるのです。

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存在を生み出す不在 

   病気の人や死の床にある人、閉じこもったままの人、障がいを持った人や孤独な人を訪ねるのはよいことです。同時に、少ししかいられない、あるいはたまにしか行かれないからといって、後ろめたく思わないことも重要です。 わたしたち自分の限界について言い訳しがちで、そのため人を訪ねる時、言い訳ばかりが先に立ってしまい、その人と心から一緒にいることができなくなってしまいます。短時間でも、病気の人のそばに心か一緒にいることのほうが、忙しすぎて、たびたびくることができないと長い時間説明するよりも、遥かによいでしょう。 

   もし、その友だちのそばに本当にいることが出来たら、わたしたちが去ったあと、多くの実りがもたらせます。友人たちは「彼が来てくれた」とか「彼女が来てくれた」と言って、わたしたちがいるという消え去ることのない恵みを見出すでしょう。

 

H.ナウエン、「今日のパン、明日の糧」、聖公会出版、2003年、111項。

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神様からの贈り物を思い起こす 

朗読箇所は Laudate | 教会カレンダー (申命記 8章2~3、14b~16b節)

   信仰を表す表現やイメージは様々ありますが、先日、次の表現が目に入ってきました。「信仰は神様から頂いた贈り物を思い起こすこと」。言いかえれば、信仰を祈り求めるのではなく、先に神様から信仰の恵みが与えられ、それを頂いたことに気づき、体験するということです。そして、信仰の贈り物に対して感謝することが大切です。命をはじめ、今日までの様々な出会いと出来事を通して、自分の人生において神様がなさったこと、つまり不思議なわざを思い起こし、感謝する接し方なのです。

   この精神は、感謝の祭儀であるミサにも当てはまります。ミサが行われるたびに、私たちはイエス様が自分の命をささげたことを思い起こしています。この救いの業をたたえるのが感謝の祭儀なのです。

   ちなみに、「思い起こす」の反対の表現は「忘れる」ですが、「忘れる」という漢字は「心を亡くす」と書きます。これは非常に深い意味があると思いませんか。

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一万回の感謝

  本日、6月11日(日)昼頃に「レナト神父のブログ」は1万回のアクセス数を突破しました。ブログを愛読していただいている一人ひとりのみさまにこころから感謝いたします。これからもよろしくお願いいたします。

                                レナト神父

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