イエスに出会った人々⑦ ベタニアのマリア(ヨハネ12章1-11節)

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      イエスに対するベタニアのマリアの行いは、ユダほどではなくても、私たちを戸惑わせるものです。私たちは打算的な考え方を持ち、自分本位な生き方をし、物事を自己中心的にしか考えないからです。しかし、愛の理屈や精神は、他者中心で働いています。マリアの純粋な愛の行為は、ユダの私利私欲の考えとは雲泥の差です。マリアの無償の愛の行いは、母親が子を抱くように、そして家族を看病する時のように、細心の注意を払った密度の高い体験なのです。

      愛の香りに触れた人は、貧しい人々への関心を必ず持ち、手を差し伸べることになるでしょう。愛は目には見えませんが、愛し愛されることを体験した人が、その愛を目で見えるようにするのです。マリアはまさにそのような行為をしています。私たちは他者に仕える時、その行いから愛の香りが放たれ、周囲はその香りで満たされます。私利私欲の世界に、無償の愛の香りを漂わせませんか。

***写真とことばはロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の提供です。 

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イエスに出会った人々 ⑥ ベトサイダの病人 (ヨハネ5章1-10節)

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       イエスからの「良くなりたいか」という質問は、余計なことばとして聞こえるかもしれません。5つの回廊には、病気の人や目の見えない人、足の不自由な人などが大勢集まっていました。中には、38年も病気にかかっている人もいたのです。

   「主よ、水が動く時、私を池の中に入れてくれる人がいないのです。私が行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」という表現から、病気の人の間でも弱肉強食の世界が存在しているのだと分かります。彼は孤独な存在で、しかも自分の境遇を嘆いており、病気を治したい気持ちをあきらめているように感じます。イエスに質問されることによって、この人は大勢の群衆の中で初めて助けを必要としている人間としてみなされ、彼の存在は認められていくのです。

    現代では、対人関係をうまく築くことができず、群衆に対する恐怖感を抱えている人が多いようです。さまざまな不自由さに横たわっている人々に人生の生きがいや希望を与えるために、まずその状況に置かれている兄弟姉妹の存在に心をかけましょう。

 ***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の撮影です。 

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イエスに出会った人々 ⑤ ザアカイ(ルカ19章1-10節)

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      ザアカイは背が低かったので木に登りました。すると、新しい世界が見えてきました。実際は同じ世界ですが、新しい視点から見たために全く違ったものに見えたのです。ザアカイが見たのは、まさにその世界です。彼の仕事は、ローマ帝国の徴税人でした。自分の利益のために税金を多く集める傾向があったため、人々から嫌われ、また宗教的に罪人(つみびと)と見なされていました。そんな彼が勇気を出し、皆の前で木に登るという奇妙な行動をとりました。すると、突然新しい出会いに招かれ、ザアカイにとって思いがけない第二の人生の始まりに応えていくようになるのです。

     「今日はぜひあなたの家に泊まりたい」とイエスに話しかけられると、ザアカイは取り乱すのではなく、急いで降りてきて、喜んでイエスを受け入れました。生気に満ちた動的な応えではないでしょうか。ここでの「急ぐ」という表現は加速のことではなく、いのちの鼓動です。イエスからの呼びかけは、警告や命令でもなく、福音すなわち良い知らせでした。そのため、彼の喜びが溢れたのです。

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イエスに出会った人々 ④ ペトロ (ルカ福音5章1−11節)

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   イエスが自分の舟を選んだので、おそらく、ペトロは心が弾んでいたことでしょう。けれども、この後、その気持ちは一変してしまうのです。イエスから船を沖に出すようにと頼まれたものの、夜通し魚をとろうと苦労したが、何もとれなかったというペトロの答えから、イエスのことばに疑いを持っていると推測することが出来ます。

    イエスに対するペトロの信頼が揺らぐ難しい瞬間ですが、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」というペトロの応答から、危険と恐れを越えて、イエスの言葉を信頼しようと心に決めた瞬間であることがわかるのです。

    勇気ある決断を必要とする時、利害の範囲を超えて、自分に賭けてみるという経験をしたことはないでしょうか。私たちは、他者を信頼して身を任せるという少しばかりの冒険を通して鍛えられていくのです。この体験から信頼が芽生え、個人的な関係から社会までもが築かれていくのです。

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イエスに出会った人々 ③ イエスの服に触れる女性(マルコ5章25-34節)

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    イエスの周りには、群がる無名の群衆がいます。その中の大半の人々の体は、実際にイエスに触れていますが何も起こりません。しかし、一人の女性の個性ある人格が群衆の中で際立ち始めるのです。この女性は、明確な意志を持って一つの計画を実行に移します。イエスを深く信頼しているので、イエスの衣の房に触れ、癒していただこうと考えたのです。本日の箇所では、「触れる」という動詞が5回も出てきます。群衆が押し迫る様子と違って、丁寧に相手に近づき、イエスと出会うのです。

    「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」という表現に対して、皆さんは何か感じませんか。占いやパワーストーンなど、表面的な治療へ飛んで行く現代人に当てはまるように思われます。しかし、心は病んだままです。ところが、群衆に阻まれているこの女性は、「後ろから」イエスに近づいていきます。無名な群衆から出て行く彼女の姿は、私たちに勇気を示してくれているのです。その勇気があったからこそイエスと出会い、対話ができたのです。

 ***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の撮影です。

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イエスに出会った人々 ② ニコデモ (ヨハネ福音3章1−15節)

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    ニコデモという人物は、ユダヤ人のエリート集団の中で相当の地位にあり、神の道を真面目に問い続けていた人でした。ニコデモは、イエスのうわさを聞いて一度会ってみたいと考えましたが、ユダヤ教の権威者は、イエスのことを異端者として白い目で見ていました。しかし、ニコデモは隠れたイエスの弟子と言っても過言ではないのです。

    ニコデモもイエスも師ですが、二人の問答の仕方は異なっています。ニコデモは、短く懐疑的な応答であるのに対し、イエスの問答は意味深いことばで展開されます。

    周囲の反応や批判などを恐れ、日々の生活の中で自分の生きる意味を問い続け、「ある夜」のニコデモのように、密かにイエスに惹かれている多くの人がいるのではないでしょうか。自分の体験も含めて、イエスが話すことばの意味が分からないけれども、イエスに話したい気持ちがあるように思われます。難しく複雑な対人関係の中でも、イエスの「新たに生まれる」という呼びかけに耳を傾けましょう。神の風に吹かれて、その命の香りを味わいたいものです。

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イエスに出会った人々① アンデレ  (ヨハネ1章35―43節)

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   歩いているイエスを見て、ヨハネが「見よ、神の子羊だ」と言いました。それを聞いたヨハネの弟子は、イエスに従っていき、イエスのところに泊まりました。弟子の一人のアンデレは、ペトロを連れてイエスと出合ったのです。

    この福音箇所に登場する「泊まる」という動詞を通して、信仰の歩みを見ることができます。「午後4時ごろ」は、当時の時間の計り方で「日没がせまり次の日が始まる」という意味です。弟子たちにとっては新しい出発を意味し、イエスのもとにとどまり始めることなのです。

    キリスト者になる基本的なことは、まずイエスとともに「泊まる」、つまりイエスと交わり、人生を共有することです。また、本当のイエスとの出会いは、閉鎖的な関係ではなく、出会いから分かち合い、そして共有へと発展していきます。この歩みは、信仰の歩みです。イエスの弟子というのは、生まれついたものではなく、成長とともにイエスのもとに泊まり、生涯泊まり続けることなのです。    

   ***写真はロペス神父(聖ザべリオ宣教会会員)の撮影です。 

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