「福音書を読み、イエスに親しむ」⑫ 語り手としてのイエス

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。ルカ15・1-2

 イエスには、はっきりさせておきたいことがありました。それは、自分の語る神が、悔い改める罪びとを喜んで家に迎える憐れみ深い神であるということでした。それゆえに、評判の悪い人々と交際したり、食事したりすることは、神についての教えと矛盾しないばかりか、その教えを日々の生活で実際に生きることです。もし紙が罪びとを家に歓迎するなら、神に信頼する人も、もちろん同様にすべきです。神が憐れみ深い方なら、神を愛する人たちもまた、憐れみ深くあるべきです。そこにはさらなる意味があります。天の父のようになることは、単にイエスの教えの大事な一面どころか、まさにその中心となるものです。そして、このイエスの言葉が持つ過激さ、とうてい不可能に思える要求は、神の真の息子、娘となり、またそうでありなさいという、誰にも向けられた招きに含まれていると理解するとき、極めて明瞭なものとなります。「放蕩息子の帰郷」 H. ナウエン

写真は高木淳司さんの提供で「菊池の桜」アルバムから

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