「福音書を読み、イエスに親しむ」⑧ 人間のジレンマとの直面 

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エスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(ヨハネ9・1-3)

 自分の、あるいは他の人に襲った悲劇の責任は誰にあるのかと困惑し、私たちは多くのエネルギーを費やします。しかし、イエスは、自分を責めたり、他人を責めたりする問題解決をお許しになりません。彼が突き付けチャレンジは、私たちの置かれた闇のただ中で、神の光を判別することです。イエスの目からすればすべてが、たとえ最も悲惨な出来事でさえも、神の業が現れる機会となりえます。

もし人を責めることを止め、私たちのただ中で働かれている神の業を伝えるのに専念したとしたら、人生は根本から改めることでしょう。だからと言ってそれは、外見上の生活が大きく変わるわけではありません。すべての人間はそれぞれ、死、落胆、裏切り、拒否、貧困、別離、喪失など、さまざまな悲劇をかかえて生きています。そのほとんどを人は変えることができません。ただしそれを、他人を責める機会とするか、神の業を見る機会とするかの選択は、私たちいかんにかかっています。

サバティカルの旅」H.ナウエン

写真は高木淳司さんの提供で、「阿蘇 外輪山から」アルバムから

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