弟は言った「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と。」そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。(ルカ15・18-20)
神のゆるしは、わたしたちの罪より大きいのです。神に向かうのではなく、自分のことだけを考える罪に気がつきます。わたしたちが受ける誘惑とは、罪や失敗に押しつぶされたり、寛容のなさに圧倒されて、罪の意識に身動きがとれなくなってしまうことです。罪の意識から、こう言うのです。「わたしはあまりにも罪深く神のゆるしに値しない」とわたしたちの目を神に向けずに、自分の内にこもってしまう、それが罪なのです。それこそ偶像となって、高慢という姿をとる罪なのです。
「イエスの示す道」H. ナウエン
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