「福音書を読み、イエスに親しむ」㉕ イエスの十字架を担ぐ

    そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。そして、イエスゴルゴタという所-その意味は「されこうべの場所」-に連れて行った。(マルコ15・21-22)

   イエスはご自分の使命を果たすためにわたしたちを必要としています。一緒に十字架を担いでくれる人たちを必要とします。イエスはわたしたちに、御父の家に向かう道を示すために来られました。新たな家を提供するため、真の安全は何かを指し示すために来られました。しかし、それはイエス一人ではできません。困難で、痛みを伴う救いの働きは人間に頼られた神による働きなのです。神はわたしたちと同じ仲間に、つまり人間に頼る存在になることを選ばれました。イエスの道は無力への道、依存への道、そして受難への道です。幼子となってマリアとヨセフ、そして他の多くの人々の愛と世話に依存し、地上での旅路を完全な依存のうちに成し遂げました。イエスは待つ神になられました。人々が自分に何をするのかと思いながら。裏切られるのか、それとも賞賛されるのか。見捨てられ処刑されるのか、それともついて来てくれるのか。そばに従う者なしに十字架に付けられたのか、それとも十字架を担う手伝いはいるのか、と。イエスにとってこの世の救い主になるとは、進んで一緒に十字架を担ってくれる人々を必要とするということです。「イエスと共に歩む道」H.ナウエン

 写真は高木淳司さんの提供で「カトリック半泊教会(五島市)」アルバム

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