聖週間を生きる

復活を知らせる駅伝 ヨハネ20・1-9 

復活の朝に起こった出来事は、例えるなら駅伝のようなものです。人から人へ伝播し、広がっていくからです。マグダラのマリアの場合、混乱しながら空の墓を発見したことを告げるために、ペトロともう一人の愛弟子のところへ走っていきます。その知らせを受け…

復活は新たな命を生み出す  マタイ29・1-10  (復活徹夜祭)

信仰は、死を含めた人生全体を考え、より良い人生を送るために、価値観や生き方、そして希望や生きがいなどを見いだす学び舎なのです。信仰を持つ人々は、死を否定することはありません。ただ、死は終わりではなく、新たないのちへの門出であると確信してい…

イエスの心構え ②  ヨハネ18・1~19・42 

受難は、突然の出来事でも思いがけない結果でもありません。それは「友のために自分の命を捨てること以上に大きな愛はない」というイエスの一貫した生き方なのです。イエスの死は、愛の行いです。友のために最後まで愛し抜くことなのです。 イエスが受けた暴…

イエスの心構え ① ヨハネ13・1-15

イエスの模範に従い、相手を思いやり、時間を割いて他者のために奉仕するということは、聖体を割って与える行為と同じです。イエスの記念として、忠実に続けていきましょう。わたしたちも高慢の上着を脱ぎ、愛と謙遜の手ぬぐいをとって腰にまとうように、日…

ユダも友と呼ばれた   (マタイ26・16-25)

ユダは謎に包まれた人物です。わたしたちは「なぜそのようなことを企てたのか」と厳しく問いただしたくなるでしょう。しかし、同情のまなざしで、ユダを見つめてください。なぜなら、イエスがユダに最後までそうされたからです。イエスを逮捕するために、兵…

イエスの愛弟子  (ヨハネ13・21-33)

キリスト教を信仰するにあたって、知識が全く必要ないというわけではありませんが、それより大切なことは、キリスト教を体験することであり、キリストと出会うことなのです。自分自身がキリストとつながり、その交わりに生かされることが欠かせない前提とな…

愛の香り  (ヨハネ12・2-11)

イエスに対するマリアの行いは、不満を抱くユダだけではなく、わたしたちをも戸惑わせるものかもしれません。そうだとすれば、わたしたちもまだ打算的な考え方をもっていることになるでしょう。つまり、自分の立場や役割について、自己中心的な見方しかでき…

⑳ 今週もみことばと共に(受難の主日A)

「主がお入り用なのです」(マタイ21.3) イエスは神殿に入る前に、子ロバの鼻と口を手でやさしくなでました。わずかな時間を惜しむように、イエスと子ロバは目と目を合わせました。イエスには、子ロバが言いたいことがわかっていました。それは「主よ、この…